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ことば

実体を持つ愛の言葉は人の心を耕す。
祈りとは、言葉以外の何物でもないが、生きておられる神様の前に捧げられた時、実体を帯びて世に愛をもたらす。
はたして、私の言葉は実体を持っているだろうか。
私が、知恵ではなく理屈を習得しているのみであれば、農家が、作物でなく雑草を育成しているに等しい。なんと愚かなことだろう。

主を畏れることは知識のはじめ、と聖書に度々書いてある。
叡智は人の心を耕し、へりくだらせるが、高ぶる知識は強い農薬のように土壌を殺し、人の心を固くする。
その違いは、知恵を持って土壌の質を見れば判定できる。長く残るものはそれ相応の価値があるに相違ない。

知るという現象は、字義を記憶するだけでは不十分で、実体験を伴って、始めて獲得せられる性質を持っている。
それが故に、我々がこの不合理な世界で不自由な肉を纏っているのであれば、その目的は「知恵の完成」にある。

神であるイエスが人間としてこの地上に来られたのも同様の目的だったとすれば、それはさらに深淵な意味を持ち、神の「言葉の顕現」であった。と同時に、神の「愛の意志」「義の境界」の表明であり、また、その契約を人類と結ぶためであった。

愛は、意志と乖離していては意味を成さない。人を愛したいと考えることは、無論殊勝なことであるには違いないが、思考は感情を超越できない。しかし、意志は自我を凌駕する可能性を持つ。

きよくなれ。へりくだる知恵と人を愛する意志を持て。
神にそう語りかけられているが、未だ腑に落とすための実経験という必要プロセスを経るには至っていない。

「義に飢え感いている人は幸いである。彼らは飽き足りるようになるだろう。」と、イエス・キリストは仰った。
この灯火の言葉を希望に、今日もまた鋤を持って土を耕し、雑草を抜きつつ、栄光の果実を待ち望む。

ヨハネ伝 一章

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は初めに神とともにおられたり
すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

新改訳聖書2017

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