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神の恵みは空気のように

高慢とは、なんと恐ろしい罪だろう。
脳内で、自らを天に引き上げ、他人を地に貶しめる。
神に近づいたつもりで澄ましていて、しかし苦労して築き上げたその塔は、やがては跡形も無く崩れ去る宿命にある。

少しばかり知性に恵まれているからといって、それが神にとって何の益になろうか。
見た目が優れていようとも、経済に満たされていようとも、天賦の才を発揮していようとも、それが利他心によって活用されない限り、益になるどころか、自らの魂を傷つけてしまう。あらゆる不祥事は、おおよそこの罪が原因であろう。

神の恵みは、高ぶるために与えられる物ではなく、人に仕えるために用いられるべきである。イエス・キリストほど知恵を持った人間は、後にも先にも居ない。哲学や宗教の域を遥かに飛び越えて、その思想は今なお天空高くで光り輝き、地を遍く照らし続ける。

仏陀も近しい領域にいると思われるが、彼は自らを神としなかったところに知恵があり、イエス・キリストも同じ理由から、自らが神であることを公言した。
物事は正しく観察されなくてはいけない。事実を事実として認めることに知恵がある。

真に気高き人間は、自らボロ布を身にまとい、地の低きに身を晒す。善悪の報いは、現世で受けないほうが却って幸いである。
私の凡庸さとその体たらくは、受動的状態に甘んじてるだけであって、聖人のそれと全く異なることは云うまでもない。
なんとも哀しい響きに聞こえるが、これでも大いに神の恵みに与っているつもりである。

「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と、神は使徒パウロに仰った。
然るに、人間の成長とは、より高く広く上に昇ることではなく、より低く深く地を掘り進めることである。

いくら重大な罪を犯した人間でも、その報いによって悔い改めるなら、苦難もまた多大なる価値がある。牧師になった元ヤクザ等はその好例であるが、不祥事の芸能人や幼児虐待の親もまた、神を見い出せれば、十二分に意義があったと云える。

意図せず、悲惨なニュースを見聞きすることがある。その際、嘆くでもなく、嘲笑するでもなく、兎にも角にも祈れる人であれ。
最も災いなことは、罪が公に晒されたことではなく、その近くに神の子が居ないことである。

ルカの福音書 十五章

あなたがたに言います。一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
(中略)
あなたがたに言います。一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。

新改訳聖書2017年版

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