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ただ目の前の人を愛しなさい。

僕がイエス・キリストと初めて出会った時に言われた言葉。
聖書にその言葉は書かれていないが、他のいかなる言葉にも置き換えることはできなかった。この言葉は、我が人生の大黒柱である。

「目の前の人を愛する」
一見簡単に思えるたったこれだけの事でも、一生かけても完成できない大事業だと思わされる毎日、毎瞬間。
小さく見えるのは小さいからではなく、計り知れないほど高く、遠いからだ。とても自力では達し得ない。
しかし、「世界を変える方法はそれしかない。」とも、イエス・キリストは言われた。
僕が新しく生まれた日、イエス・キリストと出会った事の経緯を、自戒の念を込めて記す。


小豆島という瀬戸内海に浮かぶ比較的大きな離島で生まれ育った僕は、高校卒業後に夢を追いかけて関東へ出た。しかし、田舎者の夢なんて大抵は雲を掴むような話で、当然のごとく、上手く行くはずもない。東京には、そんな人たちがライトアップされた舞台の下に蠢いていた。

そんなこんなでボロボロになりながら、何とか都会で過ごし、気がつけば早25歳になろうとしている。ヒラ目キョロ目で夢の賞味期限を何となく悟り、別の新たな夢を追いかけ始めていた。正直、世に出られれば何でも良かった。利他的精神も故事付けていたが、結局は利己的動機である。

そんな中、生きるためにしていた仕事が精神的にできなくなってきた。精神科に行くと、新型うつとの診断。それは、日常生活には支障がないほど軽度のうつ病で、仕事に対する意欲が喪失してしまっているとのこと。会社に休業を申し出た。
これ幸いと、むしろ嬉々として家に閉じこもり、夢に向かっての勉強を集中的に始めた。その新たな夢とは落語家であった。
実際、桂雀々さんという落語家の楽屋に押しかけて弟子入りを申し出たこともある。その方は、桂枝雀という大御所のお弟子さんで、上方から東京へ出てきて、個人事務所を構えていた。とても良い方で、頂いた返事も悪いものではなかったが、とある存在との出会いによって、その夢も潰えてしまうことになる。

落語の勉強は、文字や音声、動画等でまずは落語を覚えることから始まる。当時は、ユーチューブにも多くの動画が上がっており、見ては覚えるということを繰り返していた。パソコンの前にへばり付いたり、散歩しながら諳(そら)んじたりという、気楽な日々が1週間ほど続いただろうか。

ユーチューブで落語を学んでいたはずだったのに、いつの間にか陰謀論にはまり込んでしまった。この経緯はまるで覚えていない。
陰謀論を知らない方に一応説明しておくと、「世界の裏側では数少ない支配者が世の中を動かしていて、しかもその背後には悪魔がいる」という、一見突拍子もないような話だが、聖書的に鑑みてもあながち外れている訳ではない。だからといって、流布された情報を鵜呑みにしてはいけないが、当時は見事に飲み込まれた。なにせ、それまで宗教を始めとして、霊的な事柄に関心を持ったことがなく、信じる云々以前に、関心が全くなかった。

そして、それを信じ込まされた時、絶望に襲われた。元来、感受性が強かったこともあり、感染してしまったのだろう。それは言葉通りの絶望だった。
「こんな世の中で落語なんかやって何になる。希望なんてどこにも無い。どこまで行っても腐ってるんだ。」そう思いながらも、さらに情報の底なし沼にのめり込んでいった。

やがて、その底なし沼に微かな光が朧気ながらも見えてきた。それが「イエス・キリスト」という存在だった。名前こそ知ってはいたものの、聖書も何も知らない。それまでの自分には、全く関係のないことだと思っていた。しかし、藁にもすがる思いで、イエス・キリストにしがみついた。心なしか、暗闇がだんだん明るくなってきたような気がしてきた。そして、この動画と出会う。

「ただ目の前の人を愛しなさい。」
その言葉を聞いた瞬間、泣き崩れた。

30分ほど泣いていただろうか。次第に、胸の辺りが温かくなってきた。何か大きな存在に優しく包まれているような感覚で、得も言われぬ幸福感に満たされた。
そして、「今までは自分の為に生きてきたが、何も残らなかった。そうだ、これからは人の為に生きよう。」という、思いがどこからともなく湧き上がってきた。そして、そのまま、近くの古本屋に行って、小さな聖書を買った。その日は、奇しくも僕の25回目の誕生日だった。

その年に、その日を祝ってくれた人の居なかったことが、それまでの人生の虚しさを象徴している。
家畜小屋でひっそりと生まれた赤子のように、孤独な産声が暗闇に小さく響いた。

マルコによる福音書2:17
イエスは彼らにこう言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

新共同訳聖書2017

その誕生日に、本当に生まれ変わったように感じている。
この動画内で、彼に語られたイエス・キリストの言葉は、僕にも向けられた言葉だと今でも思う。
「ただ目の前の人を愛する」
これ以外に、僕の人生で成すべきことはないのだと、最近、改めて感じたため、書きしたためた。逆に、この意識さえ失わないなら、自由を許された身であるとも言える。

ちなみに、このハワードストームさんのその後の動画を見ると、宇宙人やらが出てくるので、少し残念に思うが、僕も同じ経過を辿ったことがある。
今でも、僕とイエス・キリストとの関係が継続していることもまた、奇跡だと思う。これこそ神の御恵みに他ならない。その後の戦いは、又の機会があれば書きたい。

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