石崎光瑶という画家
石崎光瑶という画家を知っているだろうか。
富山に生まれ、京都で学び、インドを旅した明治時代の日本画家だ。
現在、京都文化博物館にて開催中の「石崎光瑶 生誕140周年記念特別展」というのを見てきたのだが、あまりにも良すぎた、というか凄すぎた。
衝撃を受け、その衝撃のままにこのnoteを記しています。
石崎光瑶という画家、もちろんめちゃくちゃに絵が上手い、というか絵の上手さにもいろいろあると思うのでもう少し具体的に言うと、まずめちゃくちゃ写実性の高い絵を描く。
山登りも好き?だったようで、植物や鳥を好んで描き、これがもう気持ちいいくらい上手い。
しかし私がまずぶったまげたのは、この絵。
28歳の時に描いたらしい。
墨と筆だけでこの完成度。
完璧な構図にも痺れるが、極限までシンプルに削ぎ落とされた表現にも関わらず、山の荘厳さと大らかさが余すところなく伝わってくるあたり、、、
この28歳凄すぎる。
私は特段芸術に明るいわけでは無いが、絵画は割と見るのが好きで、特に明治の日本画家はなんともツボに入ることが多い。
花鳥画を多く描き、開国の異国情緒も取り入れた画家はとりわけ好きで、杉浦非水、渡辺省亭などが挙げられる。
彼らは欧州の絵画を学び、日本画を格段に「おしゃれ」に描いた。
しかしこの石崎光瑤の少し変わったところは、彼が影響を受けたのがインドの熱帯や、はたまたヒマラヤの高山地帯などだった点だ。
32歳の石崎光瑤はインドに渡り、1年以上異国の動植物を取材した。
そして帰国した翌年の1918年、≪熱国研春≫を描き上げ、第12回文展で特選を受賞。
石崎光瑤、34歳の年である。
熱帯の豊潤な生命力を描き出す斬新な構図、鮮やかな色使い。
左右屏風共に画面の大半を葉が占めるが、輪郭線を描いたり描かなかったり、色合いや濃淡でメリハリが付けられており、間延びした印象は全く無い。
というかむしろ木々や植物の生命力が、画面からはみ出てきそうな勢いすら感じる。
当時他の画家が決して見ることの無かった異国・インドの景色・空気を、彼は見事なまでに日本画に落とし込んで見せた。
翌年1919年の第1回帝展でも≪燦雨≫が特選を受賞。
スコールだろうか、画面全体に激しく降り注ぐ金色の雨、その中を舞う南国の鳥たち、雨宿りする孔雀。
眩しいほどの鮮烈な色合いと大胆な構図が、見る者を圧倒する。
異国情緒だけでなく、石崎光瑤は日本の風景ももちろん見事に描き出している。
1920年発表の≪雪≫は、雪国の景色を大きな窓で切り取ったよう。
この作品もまた自然の大きさを、静かな迫力をもって感じられる。
そして1922年に発表された≪白孔雀≫。
この作品を見たくて私は京都まで行ったのだが、実物を目の前にしたときの感激は想像以上だった。
ほかの作品同様、溢れ出すような生命力を感じる力強い構図に、真っ白の羽をふわりと軽やかに広げる孔雀が清廉な印象を加える。
左屏風には木々の影に隠れるまた別の白孔雀、小さな南国鳥。
全体に散る葉だけに輪郭線が描かれ、菖蒲や木々は濃淡によって描かれており、これもまた全体にメリハリ感を与え画面全体が立体的に見える。
これがプロの絵描きかあ、と思う。
見れば見るほど、あらゆるところが完璧に設計されているのだ。
左屏風をフレーミングする大きな木肌もまた、憎いくらい完璧な配置。
壁全体という大きな画面をここまで緻密・大胆に埋め尽くし、遠景で見ても圧巻な上に、ディテールもまた素晴らしいときた。
写実的に描くところとデフォルメして描くところの使い分けにも唸る。
右隻の孔雀2羽の対比たるや、、全ては必然の上に成り立っているのだという気持ちにもなる。
迸るような鮮やかさを特徴とした画調の3作(熱国研春、燦雨、白孔雀)がしばしば石崎光瑤の代表作といわれるようだが、この3作を産み落とした後もこの画家は進化し続けた。
この展覧会で私が最も感動したのは、もしかするとこの≪惜春≫かもしれない。
画像では見えないのだが、鴉は輪郭線を描かず、羽は1枚1枚濃淡によって黒々と描かれている。
散り始めた桜、その下を滑空する翼の羽先からはこの画家の気迫が漂っているようだった。
春を惜しむ気持ちが、本当に一瞬、時を止めてしまったような1枚。
日本画の境地とかそういうものがあるとすれば、全てがこの1枚に詰まっているのではないか。
◇◇◇
この展覧会のうたい文句が「若冲を超えろ!」だったのだが、若冲に憧れたというこの画家は、若冲に学び、若冲の表現を確かに超えていったように私は思う。
物事、対象をよく観察し、その美しさの本質を真に理解した者にだけ、こういう絵が描けるのだろう。
画家という人種のたゆまぬ努力と探求心に、心から感動した展示会でした。
ぜひ実物を見に行ってみてください!