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綺麗事で終わらせないために、その子の世界を共有する

たとえ学校を休んでいても、
子どもたちは、それぞれ素敵な
スキルやセンスを持っている。
それは大人から見た、子どものよさという、
縦の構図ではない。

1人の人間として素直に
「素敵な感性だな」
「大事にしてほしいな」
「将来、社会でも活躍できるだろうな」
と思えるものばかり。

でも、
そうした前向きな言葉は
子どもにはなかなか届かない。

「あなたは、すごい」

かつて、
自分ではどうしようもない困難に直面し、
やがて、自暴自棄になってしまった子。

いくら周りが
「あなたは素敵なものを持っている」
と伝えたところで、
その子が見ている世界ではそう思えない。
だから、苦しんでいる。

いくら周りが
「あなたの個性は将来輝くから」
と伝えたところで、
その子が見ている世界に輝く将来は存在していない。
だから、絶望している。

大人は、子どもが経験していない「将来」を経験している。
だからこそ、今の悩みは一時のことで、
大人になればその悩みも変わる可能性があることを知っている。

けれど、それは同時に「将来を経験していない子どもの目線」
を気づかぬうちに忘れてしまうことでもあったりする。

経験している人にとって、
経験していない人の視点に立つことは、
意識しないと難しい。

子どもの見ている世界に寄り添う

励ましの言葉も、
賞賛の言葉も、
勇気づける言葉も、
子どもが見ている世界を共有していなければ、
子どもに響くことはないだろう。

どんな綺麗な言葉を伝えても、
「あなたはそう思える人生を歩んでいるだけ」
「私はあなたとは違う」
ただ溝が生まれるだけであり、綺麗事で終わってしまう。

だからこそ、
伝えたいことを伝える試みをする前に、
相手の見ている世界を理解してみる。

その世界の中に、
「自分を理解してくれる存在がいること」
「一人ではないこと」
を確かめてもらう。

繋がりの中で、人は存在を感じる

人は自分以外の他者がいるからこそ、
自分という存在を確かめることができる。

そして、
その関わりの積み重ねから、
自分らしさとは何か?を知り、
世界の中での自分は更新されていく。
やがて、かつて見ていた灰色の世界も
その色合いが変わっていることに、ふと気づく。

思い出す、いつかの言葉

かつての自暴自棄になっていた子。
苦労の末、自分が望む進路を決めたとき、
その子がこんなことを言ったことを思い出す。

「オレってすごいよな」

会話の流れを文字に起こせば、
それは私に向けた言葉でもあった。

でも、きっとその言葉は
自分に向けたものでもあったと思う。

自分で自分を認めることができたこと。
その子が変わっていることを感じた瞬間。

きっと、もう大丈夫だろう。
私の役割も終わりに近づいていることを感じるとき。

そして、今なら伝わる気がする。

「うん、あなたはすごいよ」

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