人間視点の自分を癒しながらも、幻を理解し、ソースの視点で生きる。
先日、私の中の亡者ちゃんについての気づきがあった。
正体がわかった。
それは、この世の中で”常識”とされていた男性原理(競争、優劣、比較。本音ではないこうあるべきというもの、etc.)に縛り付けられた、でもその通りにはなかなかできない自分。そんな自分の不甲斐なさ、ダメさへのダメ出し。
男性原理にだけ従って生きるのは苦しいよ、助けて。
(世の常識と思っている)男性原理の通り生きられない自分でごめんなさい。存在していてごめんなさい。
親や社会の言われた通りにできなかった自分。
いろいろ失敗してやらかした自分。そんな恥ずかしい自分。
できる風を装ってもできていない自分。かといってそんな自分を許せるわけでもなく、ダメな人と心の中で自分を否定して。
相当やらかしてても、いいんだ。
清廉潔白じゃないし、できないことがいっぱいだし。
そんな自分でもいいんだ。
いままで社会にならって×をつけていたそんな自分にも○をつけよう。
そういう自分の想いを解いていったら、癒されて。統合されて。
苦しくて、嫌だった亡者ちゃんの存在さえも、「ありがとう。あなたのおかげで今があるよ」となって、亡者ちゃんもお友達になった。
ま。これらは、私の中での「ストーリー」のお話。
”人間視点”でのお話。
これが腑に落ちてからは、確かに亡者のような叫びは今のところないのだけど、でも、これまた昔からよくあった(そして今年に入ってからはかなり減っていたんだけども・・・また復活)なんとなくモヤモヤする気持ちは存在していた。
そんな中、『奇跡のコース』の中に紹介されているらしい言葉で、
天国は、わたしが下さなければならない決断である。
とあるようで、つまり、
幸せになるために理由なんて必要ないし、だから何の理由もなくただ幸せでいればいいんだ。(by『愛は誰もわすれていない』)
うん。これはよく聞く話だ・・・。
至福に集中すると決意する、っていうやつ。。。
人間視点の自分を癒しながらも、
でも、自分を含め全ては、思いも幻であることを認める。
起こっていないことを赦していく。
そして自分の中の聖神さ。前はよくハートの奥の感覚、と言っていたけど、「my holiness」。”神”(ONENESS)、全てが完璧で何も起きていなく全てがあって全てがない源、ソース。それにつながっている「my holiness」(聖霊、神聖さ)。
そちらを意識し、聖霊に、my holinessにソースにつながること、真実を見ることを望むことを伝える。お願いする。
分離をつくりだして罪の意識に苛まされている”人間意識の自分”(=エゴ)が、自力でソースに戻りたいとおもったところで絶対にいけない。
(あぁ、これは、発したものは発したところにかえる法則だなあ)
だから、”聖霊”にお願いして、ソースにかえりたいんだ、とお願いする。【他力】ではないと、たどり着けない場所・・・。
”天国”にいくと、ソースにいくと、至福の中を生きると、「自分で決めて、決断して、赦すことはしていくけれど」、どうやったらたどり着くかというのは、聖霊の仕事。”私”の仕事ではない、ということなんだね。
全てはフラクタルというけれど、望むものがあるときどうやって手に入れるかということは人間の考えることではない。人間の考えることは望むものをきめること。というようなことが言われているけれど、ソレと同じだね。
ちなみに今日は10日目のレッスンをしている。
わたしの思いには、何の意味もありません。
My thoughts do not mean anything.
(これは人間視点の思いのことかな)