ふたたび行きたい瀬戸内国際芸術祭
今年は瀬戸内トリエンナーレ開催年。
すごく行きたいのだけれど、昨今の情勢の前に絶賛子育て中の身としては、乳飲み子を連れて行くのは骨だ。だが、あの旅の感動は忘れがたい。活気と熱気、そして、静寂。さまざまなものがあの島々にあった。それを思い出すと、また足を運びたくなる。
持って行ったカメラ
カメラのことを語るnoteなので、カメラ目線で話を進めるが、写真を撮る人間として瀬戸内トリエンナーレが魅力的なのは田舎の町にぽんと現れる異物感である。
島のあちこちにアート作品があり、その異物感、つまり島であれば普通の田舎の光景に明らかに合わないモノらが鎮座しているぎくしゃく感、それがあって面白い。必然的にそれらアート作品を写真に収めることになるのだが、撮るなら、それを含んだ景色を撮るのがいい。違和感を撮るのだ。
持って行ったカメラは3つ。
3つってアホか、という話だが、どれも小ぶりなので苦ではない。
X100とX100T、それにテレコン、ワイコン。それからライカM3だ。
28mmと50mmにしたX100シリーズ2台持ちが旅にちょうどいいことは先の京都旅で実感済み。今回も全く街並みは違っていても、それで充分だろうと考えた。望遠や超広角が必要なときはそんなになかろうとも。
逆に言えば、明るいレンズも必要ではないから、一眼レフにズームレンズ一本でも良かったろうが、旅に単焦点は楽しい。加えてライカでも撮った。ズミタールのついたボディで目についたものを気が向けばシャッターを切る。
今ならどうするか。子どももいるしサクッと撮れる一眼レフとズームレンズ、そんなのもいいかもしれない。ぼかす必要もさほどないのだから。
ただ、ライカ、というより、フイルムで撮った島々の光景はとても良かった。ノスタルジックで、だからこの旅の記憶が何割か増しで美化されていると思う。
体感する作品
そんななか、写真にできないものもあった。単純に撮影禁止だというのもあるけれど、もし撮れたとしてそれをどう撮ればいいか、分からない。音が重要な作品なので、動画であれば、ともすればその感動を記録できるかもしれない。しかし、この作品は実際に体験しないと分からない。不気味さ、怖さ、それとは真逆の安心感、包まれ感、この作品ひとつを観に行くだけでも瀬戸内に足を運びたい、そう思わせるものだ。
名前を「心臓音のアーカイブ」と言う。クリスチャン・ボルタンスキーの代表作の一つだ。
以下は、その時のことを書いた自分のブログからの引用。
本当に、あれは体験するアートだった。アイデアはシンプルで、ともすれば誰でも思いつくものかもしれない。けれどボルタンスキーらしさという一貫したものがそこにはあって、例えば他のアーティストが同じことをやっても違うものになるだろう。そして僕はボルタンスキーが作ったこの作品に感動したのだ。
ノスタルジックな記憶
夏だったからだろうか、僕はこの旅をとてもノスタルジーあふれるものとして記憶している。それは昼間、こんな田舎にわんさかと人がやってきて賑わっているのに、夕方になるとさーっと人が去っていく、その寂しさを覚えているからかもしれない。
あるいは直島や、豊島の美術館の静けさとの対比や、アート作品のいくつかが、生と死を思わせるものが、あったからかもしれない。さらには海の波が、とても穏やかだったということもあるだろう。
もしも、あなたが少し疲れていて、癒しの旅に出たいのなら、今年は瀬戸内国際芸術祭なんかはどうだろうか。人人人、そして、静寂。アートのことが分からなくても、もっと言えば興味がなかったとしても、あの熱気と静寂のコントラストが心を穏やかにし、少し寂しくもさせるだろう。
あなたの脳内を占めているあれこれが、いつの間にかアートへの思考に移行していることにも気づくだろう。
そうした変化が、日常の束縛からほんのひととき、解放されるかもしれない。
クリスチャンボルタンスキーも昨年だったか、鬼籍に入られた。だが、僕は聞いた。彼の鼓動を。僕もまた、あそこに鼓動が残されている。
少し早足の鼓動が 独り歩きをする たとえじぶんが いなくなったとしても
不思議な感覚だ。そんな不思議な感覚が、島のあちこちにある。日常でもない、豪華でもない。手放しで楽しめる陽気な地でも全くない。そんな場所だからこそ自分が少しだけ楽になれるような気がする。
今旅は難しいが、いつか足を運んでもらいたい。
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