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搾取と支配の近代

 14世紀ごろから、ヨーロッパ各地で封建制に対する反乱が起こるようになった。初期の反乱はあまり首尾良くいかなかったが、1347年にペストが流行すると人口が大きく減少し、小作農・労働者が大きな交渉力を持つようになっていった。1381年にはワット・タイラーの乱、1450年には「ジャック・ケイドの反乱」が起こっている。「乱」と呼ばれていることからもわかるとおり、これらの反乱自体は首謀者が処刑されるなどして沈静化されたが、結果的には農奴制が廃止されることになった。農奴から解放されるとは、自分の土地を持てるようになるということで、農民たちは自分の土地をベースに、放牧地や水源地などの共有地を共同で管理し、平等で協働的な社会を築きはじめた。

 土地を直接管理する権利を勝ち取った自由農民は、自然との間に互恵的な関係を築けるようになった。民主的な集会を開き、耕作、放牧、森林の使用に関するきめ細かなルールを定め、牧草地やコモンズを集団で管理した。ヨーロッパの土壌は回復し始め、森林は再生した。

ジェイソン・ヒッケル『資本主義の次に来る世界』50頁

 しかし、上流階級は当然こうした状況を喜ばなかった。コモンズの私有化などを通して、互恵的な社会は上流階級によって徹底的に潰されることになった。

 1350年から1500年までの革命の時代、上流階級は歴史家が「慢性的な非蓄積」と呼ぶ危機に見舞われた。国民所得(全国民が得る所得の総額)がより均等に国民に分配されるようになるにつれて、上流階級が封建制のもとで享受していた富の蓄積は難しくなった。ここが肝心なところだ。わたしたちは、資本主義は封建制の崩壊から自然に出現したと考えがちだが、そのような移行は起きなかった。資本主義は上流階級による富の蓄積、つまり大規模な投資のために富を過剰に溜め込むことを必要とする。しかし封建制が崩れた後に生まれた平等主義の社会は、自給自足、高賃金、草の根民主主義、資源の共同管理を軸とし、上流階級による富の蓄積を阻んだ。上流階級の不満の核心はそこにあった。
 この平等主義の社会が、その後どのように発展していったかを、わたしたちは知り得ない。なぜなら、容赦なく潰されたからだ。貴族、教会、中産階級の商人は団結し、農民の自治を終わらせ、賃金を引き下げようとした。もっとも、そのために小作農を再び農奴にしたわけではない_そうすることは不可能だとわかっていた。その代わりに、ヨーロッパ全土で暴力的な立ち退き作戦を展開し、小作農を土地から追い出した。農民が共同管理していたコモンズ、すなわち、牧草地、森林、川は柵で囲われ、上流階級に私有化された。つまり、私有財産になったのだ。
 このプロセスは、囲い込みエンクロージャーと呼ばれる。

Ibid,52頁

 このようにして、コモンズの囲い込みによって自作農民を没落させ、労働力以外に生計の手段を持たないプロレタリアが産み出された。しかし、人々を強制的に働かせるためには、コモンズの私有化だけではなく、もっと根本的に人々の考え方を変える必要があった。

 コモンズを維持する思想の背景には、アニミズムがあった。アニミズムに依拠する観点からは、自然全体も生き物であり、生態系を破壊するような過度の狩猟・採集・伐採などは行われない。

 一神教のキリスト教が席巻していた中世ヨーロッパでさえ、人々はアニミズム的な世界観を持っていた。アリストテレスはプラトンのイデア論を批判して、「物事の本質はイデアなどというどこか(ニーチェの言う「彼岸」)ではなく、その物の内側に存在する」と主張した。『博物誌』で知られる古代ローマのプリニウスも、地震は人間が必要以上に地中から資源を掘り起こしたことに対する大地の怒りだと説いた。13世紀以降、イスラム世界を通じて古代ローマ・ギリシアの著作の新訳がヨーロッパで復活し、こうした見方が広まっていった。

 このようなアニミズム的世界観は、生産性を向上させたり、労働者を労働に駆り立てたりする上での最大の障壁となった。囲い込みによって人々からコモンズを奪っても、「生活に必要な以上には自然から取らない」という価値観は残り続け、当然ながら資本主義的な生産様式を実現する上での最大の障壁となった。

 そこで登場してくるのが、アニミズムを未開のものと考える進歩主義的な思想と、自然を収奪の対象とみなす二元論、そして肉体は精神によって、生産性を最大にするために管理されるべきであるとする物心二元論である。フランシス・ベーコンやルネ・デカルトを通じて、自然を無機質な機械、科学の知見によってそこから最大限の収益を得るための源泉と見なす思想が形成された。

 デカルトの身体論は、人間の労働を自己から切り離し、抽象化し、自然と同じく市場で交換できるものにした。土地や自然と同じように、労働も単なる商品に変貌したのだ。デカルトが登場する1世紀前には考えられなかったことだ。こうして、囲い込みが生みだした難民は、権利を持つ主体ではなく、大量の労働者と見なされ、資本主義の成長のために訓練され、支配されるようになった。

Ibid,80頁

 こうして自然も身体も、資本主義の生産のための機械的なツールとして見なす思想が支配的となった。そのなれの果てが現代であるということは言うまでもないことだろう。テレワークで、パソコン操作が一定時間ないと勤務していないと見なすツールさえ開発された禍々しさの起源はこういうところにある。

コロナ禍で広がったリモートワーク。緊急事態宣言が明けても、可能な限りの継続が求められています。

ただ、企業によっては、労働者がサボっているのではないかと心配するあまり、さまざまなツールを導入しているようです。

ツイッターでは、「5分カーソルを動かさないと休憩とみなして勤務時間を減らすソフト」についてのツイート(3月10日)が5000回以上リツイートされるなど、話題を集めました。

https://www.bengo4.com/c_5/n_12880/

 再度、『資本主義の次に来る世界』からの引用。

 1600年代、デカルトの思想は、衝動や欲望に打ち勝ち、規則正しく生産的な秩序を身体に課すために利用された。喜び、遊び、自然な衝動など、身体的快楽を求めることはすべて不道徳と見なされた。1700年代には、この考えは「怠惰は罪」「多産は美徳」という明確な価値観に統合された。当時の西洋キリスト教社会で支配的だったカルヴァン主義の神学は、「利益」を道徳的成功の象徴にして「救済の証」と見なし、利益を最大化するために、生産性向上を第一の目的として生活することを奨励した。生産性をめぐる競争に負けたり、貧困に陥ったりした人は、罪人の烙印を押された。貧困は強奪された結果ではなく、個人の道徳的失敗と見なされるようになったのだ。

『資本主義の次に来る世界』81頁

 このような価値観を埋め込むためにイギリスで作られたのが「救貧院」だ。日本語の字面だけ見ると、「貧しい人を救う」という崇高な理想を実現しているかのように見えるが、先の引用からわかるとおり、「救う」とは「矯正する」ことに他ならない。救貧院は実際には工場であり、時間割に沿って組み立てラインで働かせるための施設であった。学校のほとんども同じ設計思想に基づくことは言うまでもない。

 こうして見てくると、近代的な価値観のほとんどが人々を支配し搾取するためのイデオロギーに過ぎないということがはっきりしてくる。

 國分功一郎に『中動態の世界』という著作があり、古代語(とくに古典ギリシア語)には能動態とも受動態とも異なる中動態というものがあったことから、自由意志に基づく行為の主体性にまつわる問題を論じている。近代においては、人間の行動は自由意思に基づくという物語が大前提とされている。近代刑法の枠組みは、意思すればそれを回避できたのにしなかったことを法的責任の源泉としている(たとえば過失致死と殺人の違い)。

 しかし実際には、その近代的な「主体が客体に対して行為を為す」という枠組みに収まらないのが現実のものごとのありかただろう。わたしがパソコンで文字を入力するとき、わたしという主体がパソコンや文字という客体に対して行為すると同時に、パソコンや文字からも影響を受けている。その入力の過程の中で、執筆をする前には思いも依らなかったような内容を書いてみたり、あるいは執筆をやめてほかのことをしてみようという気が起こってきたりする。このような、主体が過程の中にある状態が中動態によって表されるが、このようなあり方の行為において、主体となっている動作主の意思に基づく責任を問うことはできるのか、ということが同著のテーマとなっている。尤も、同著は刑法的な責任論というよりは依存症からの脱却という観点についてである(依存症の原因を意思の弱さに求めることで、却って依存症から抜け出すことができなくなるという問題)。

 近代西洋語の多くには中動態はなく、能動態・受動態という主体・客体関係をベースにした構文が多い。私が考えているのはこのような主体客体関係の枠組みに基づく自由意思論や、本来精霊や精神が宿ると考えられてきたものを客体として人為的な操作の対象とする考え方も、民衆を支配するためのツールやイデオロギーの一つなのかもしれない、ということだ。よく日本人や日本語は論理性に乏しく、問題や責任の所在をはっきりさせないとして(それこそ西洋から)批判の対象となるが、日本のやり方こそが洗練された人類の叡智を反映させたものであって、たかだか500年くらいの歴史しかない近代の枠組みのほうが人類を不幸に陥れている。


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