世界をめぐるレンピッカ、資本主義
「欲望する機械」という言葉は、たしかに秀逸なネーミングだった。けれども、それが盛んに語られたのはもう50年も前のことだ。当時の新鮮さはすでに失われている。イメージに傾きすぎているという批判もあった。
それでもなお、欲望のもつ奇怪で、謎めき、冷徹で、どこかコケティッシュな特性の表現としては、独自の存在感をはなっているだろう。ましてや、欲望の車輪は、いまもカラカラと音を立ててまわっている。どんどん加速しながら。
ドゥルーズ/ガタリにいわせれば、「器官なき身体」からつらなる思考の先に、この機械が立ちあらわれてくる。この身体にもさまざまな欲望が張りついていて、そのエネルギーが複数の機械を動かしている。しかも、すべてが同時に作動しているのだ。
にもかかわらず、統一的な管理システムは存在せず、いっさいの命令系統にしばられることもない。分裂症的な衝動だけが渦巻き、それらがひとつひとつの部品とつながっている。
抽象的な表現がすぎるだろうか。
たとえばその衝動は官能であり、そこにつながった部品は先の尖ったピンヒールかもしれない。あるいは虚栄心とつながった贅沢な別荘、ときには殺人衝動が張りついた冷たく輝くナイフということもある。
アントナン・アルトーが書き残したものには、こうした欲望と機械の関係を想起させる断片が数多くある。たとえばこの文章もそうだろう。
神は久しい前から彼らを十字架に釘づけしたものと信じていたが、
彼らは反乱し、
鉄、
血、
炎と骨で武装し、
〈見えないもの〉を罵倒しながら進んでいく
ここにあらわれているのは統制からの離脱であり、クーデターである。システムの指示系統から逃れた欲望する機械は、さまざまな時代に、さまざまな場所で観察される。
1920年代のという狂騒の時代を、美貌の画家タマラ・ド・レンピッカ駆け抜けていった。
彼女がパリでエロティシズムと貨幣という欲望のなかにいたころ、日本は国全体が「戦争する機械」へと大きくその舵を切ろうとしていた。明治維新以降、日本は欧米の産業や文化を吸収し、帝国主義的な植民地政策のあとを追っていた。そのなかにあって、暴走しはじめた欲望が狙いを定めたのは領土拡大だった。
ある種の神話が構築され、ここでも欲望の車輪がカラカラと音を立ててまわりはじめる。にもかかわらず、その欲望の主体がいったいだれで、どこにあるのかは明確ではない。
第二次世界大戦がおわると、神話は崩壊して、目の前にはただ焼け跡だけがあった。動物としての生存本能がむきだしになり、混沌とした戦後の空間に渦巻いていたエネルギーは、やがて豊かさを追い求める欲望へと収斂し、高度経済成長へとつながっていく。
戦争から30年がすぎた1970年代なかばには、豊かさのかたちがある程度ととのい、20年近くにおよんだ高度経済成長は終わりを告げた。時代は低成長型の社会へと移行しつつあった。
二度のオイルショックが世界を襲い、ベトナム戦争が終結。資本の動きも変わっていく。国家という壁のなかで、閉じられた経済を完結させるのは、すでに困難になりつつあった。そうでなくとも、だぶついた巨額のオイルマネーがあらたな投資先を求めて、世界に流れだしていたのだ。それは、飽食を知らない新しいモンスターの登場といってもよかった。
目的を失ったまま、欲望だけが肥大していくという新しい時代がはじまったのである。
1980年代後半にはバブル経済が日本をおおいつくした。その先に待ちうけていたのは、なんともいえない閉塞的な空気である。いっぽう、外資をひたすら求めつづけたアジア諸国は、1990年代後半になって、あいつぐ通貨危機に見舞われていった。
マネーに翻弄される姿は、まるで欲望という名のウィルスに感染したかのようで、脳神経を冒された恐水病の犬たちを思わせた。自分ではどうしようもなく、なぜそうなるのかもわからない。
日本がバブル経済をへて、失われた20年という混迷期にあるころ、世界は各地で紛争やテロリズムが起こり、難民が増加し、格差社会が広がっていた。欲望という渦のなかで資本主義はあえぎつづけていた。
時代は戦争と経済に翻弄されつづける。
時代をもう一度戻してみよう。
タマラ・ド・レンピッカは1930年代の大不況時代にもかかわらず、ふたたび上流階級の暮らしを手にいれていた。再婚相手の男爵も、東欧に所有していた財産をいち早くスイスに移させるなど、時代の変化に応じた対策を講じている。もちろんナチスの台頭に不安を感じていたためだ。
1933年にはレンピッカの絵が表紙を飾ったドイツでもっとも人気のある女性誌『ディー・ダーム』も、ナチスによって廃刊に追いこまれていた。それは、緑色のあの高級車ブガッティと一体化していたレンピッカにとっても、なにかの予兆だったのかもしれない。
10代のころにロシア革命に翻弄された記憶が、彼女の精神の奥底に時代への強い感受性と用心深さをもたらしていたのはまちがいない。欲望の渦のなかにいた彼女自身が、どこまでそれを自覚できていたのだろうか。
転落は、いつくるのか。
レンピッカは周囲に「長期休暇をとる」といい残して、1939年の夏、ヨーロッパをあとにしてアメリカへとわたった。西海岸のビバリーヒルズに住まいを見つけるとすぐに、ハリウッドの映画俳優たちと交流するようになった。時代の寵児としてその名を知られていた彼女ならではの動きだろう。ヨーロッパの、しかも比較的北部での暮らしが長かったレンピッカにとって、燦燦と陽光がふりそそぐカリフォルニアでの暮らしは、ずいぶんと刺激的だったはずだ。
1943年にはニューヨークに居を移し、そこでも彼女はスタイリッシュな暮らしをつづける。
1980年代から50年代にかけて、レンピッカの作品にはサルバドール・ダリやイヴ・タンギーのようなシュルレアリスムを思わせるものが多く見られるようになった。作風は抽象絵画に近づき、そうした傾向の作品も数多く残している。
ところが、このころにはすでに画家としての名声は失われ、彼女の作品からは往年の、あの青いモルフォ蝶のような不思議な輝きが消え失せていた。
1963年、夫が心臓発作で亡くなると、レンピッカは財産を売り払って、娘夫婦の暮らすアメリカ南部のヒューストンに移り住むことにした。同じ年、ニューヨークのイオラス画廊で個展が開かれたが、批評家たちの関心をひくことはなく、作品もほとんど売れはしなかった。彼女は精神的に追いこまれ、不機嫌で愚痴っぽくなっていった。これ以降、新作を発表することもなく、レンピッカは時代から忘れ去られていく。全盛期から四半世紀以上がすぎて、過去の人になっていたのである。
ところが1970年代にはいって、レンピッカが再評価されはじめる。アール・デコを代表する画家のひとりとして注目され、72年にはパリのリュクサンブール画廊で当時の作品をあつめた展示会がおこなわれた。ファッション界や芸能界の人たちが、彼女の作品を買いあつめる動きもみられるようになった。しかし、その才能がふたたび復活することはなかった。
レンピッカは1978年にメキシコのクエルナバカに移住し、その2年後、1980年3月に81歳の生涯を閉じた。
ポーランドに生まれ、ロシア、フランス、アメリカ、メキシコなど、レンピッカは世界各地をわたり歩いた。この間、何度か世界一周の航海にもでかけている。ひたすらみずからが輝ける場所を求めて、さまよいつづけたかのような人生だ。そのさまを遠くから眺めてみると、利益を求めてさすらう資本を彷彿とさせるものがある。
資本の動きはきわめて奔放で、気まぐれでありながら、クールで、ときに理知的ですらある。そこには情熱と冷静が同居している。
そもそも時代と戯れることは、ある種のいかがわしさと無縁ではいられない。資本はたえず戯れの対象を探し求め、それを見つけだせば、ともに踊り、ときには熱狂さえしてきた。資本主義は遊戯的であるという表現も可能だろう。
ただし、ともに戯れているあいだはいいが、その対象はつぎつぎに変わる。対象の側からすれば、その戯れのなかに崩壊へとつながる因子が埋めこまれているということである。私たちは資本主義という世界にいるのではなく、資本主義という他者にアクセスしているというほうが近いのかもしれない。その回路には、制御不能となる欲望が深く関与している。
欲望が、資本主義という巨大な船を航行させるための、大きな推進力となってきたのはいうまでもない。そのエネルギーは資本主義の伝播拡大を生み、社会にかつてない流動性をもたらしてきた。その結果、自由とともに束縛をつくりだしたのである。技術や才覚や資格があれば自由を手にし、残された者は檻のなかでの暮らしに安息を求める。
檻とはひとつの結界であり、その内側にいることは守られた民である証しである。
いっぽう、自由とはつながりを断つことであり、みずからをマージナルな存在にすることだ。中心ではなく周縁部に生き、さまざまな領域を行き来する移動者である。ただし、そこには二種類の人々がいる。
1つは、恵まれた生活を享受する自立した人々である。もう1つは、内側からはみでた非正規の労働者であったり、権力に迫害され難民となった人々であったりする。レンピッカは良くも悪くもマージナルでありつづけた。
(序章 資本主義とエロティシズム 3/4)
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