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1960年代、反抗する若者たちのゆくえ

経済学者のケネス・ボールディングは、モノには「物的特性」と「イメージ特性」があるとしている。
前者はおもに機能や素材に由来し、後者はモノにたいする共通の印象や幻影といったものをさす。こう指摘したうえで、人間の行動は「刺激」ではなく、「イメージ」に依存するのだとボールディングは書いている。
この考えにしたがうならば、消費行動をうながすイメージとして、欲望と直接的にむすびついたエロティシズムに白羽の矢があてられたのはよくわかる。性的欲望をからませたイメージ戦略によって、消費欲を喚起しようとしたわけである。

しかし、当時の経済学の潮流は、こうした市場原理主義的なものではなかった。そのころアメリカ経済学の主流にあったのは、ポール・サミュエルソンらを中心とした「新古典派総合」と呼ばれる考え方だ。その思想は、政府の市場介入を容認するケインズ経済学と、市場メカニズムに重点をおくマネタリストの立場をバランスよく組みあわせることで、資本主義を安定的に発展させようというものだった。こうした穏健な経済思想によって、そのころのアメリカ経済はコントロールされていた。

じっさいのところ、中流階級が豊かさを享受できた背景には、市場の自発的な発展だけではなく、政府の財政支出や所得平準化のための税制があった。後者の役割を抜きにして、1950年代からつづくアメリカの物質的豊かさは語れない。それが証拠に、第二次世界大戦以降、アメリカの所得格差は戦前に比べて大きく縮小している。
しかし、1970年代のオイルショックをへて、時代の不確実性が高まり、アメリカ経済もケインズ的な裁量政策では対処できなくなっていった。
こうした事態をうけ、市場原理主義的な「合理的期待形成学派」が台頭し、長期的にはケインズ的政策は成立しえないとしたマネタリストの考えをさらにおし進め、短期的にもこれを否定した。数式を多用した仮設的経済のあり方を示そうとしたのである。
しかし、その前提があまりに現実から遊離していたために、経済学の虚構性があらわになったという批判もある。

こうした経済学の変遷を先取りするかのように、アメリカの現実は繁栄の時代にあってさえ、暗い影を宿していた。市場を刺激するような企業パフォーマンスばかりに目がいき、多くの人々がその幻影のとらわれるのは無理もない。時代の地殻変動はほとんどの人間が気づかないところで進行していく。
時代が落とす暗い影は生活に浸透し、それを表現しようとする試みはすこしずつ広がりをみせていく。

たとえばロバート・フランクの視線は、ニューヨークを起点とした新しい記録映画の潮につながっていった。
ジョナス・メカスやジョン・カサベテスといった映画作家、さらには詩人のアレン・ギンズバーグらを巻きこんだ1960年代のカウンター・カルチャーである。
映画界では60年代後半になって、西海岸のハリウッドにあった旧体制を打ち壊し、アメリカン・ニューシネマ(ニュー・ハリウッド)という潮流が生まれてくることになる。写真集『アメリカ人』から10年をへて、反社会的なヒーローたちを主人公とした一連の映画作品がつぎつぎと公開され、それらはアメリカの大衆にうけいれられることになった。
ベトナム戦争におけるアメリカ政府の欺瞞が露呈するなかで、政府への信頼は失墜。さまざまなメディアでアメリカの暗部が描かれるようになり、反体制的な若者の姿が人々の心をつかんだのである。1960年代なかばから70年代をつうじて、あきらかに時代の空気は変化していった。

反体制的な空気のなか、「性の革命」という言葉がつかわれわれたのもこの時代のことだ。ひとつの起点となったのは、フランスで起きた五月革命だろう。
その発端はパリ大学ナンテール校の女子寮に、男子学生がいれてもらえなかったという出来事だった。学内規則では、夜10時以降は女子寮への男子の立ち入りが禁じられていた。しかし、その逆は許可されていたのである。これを性的抑圧だとして、女子寮を占拠する事態が起きた。それ以降、学生と大学側の対立が鮮明になっていく。警察の介入などもあり、体制にむけられた学生たちの不信感は大きくふくらんでいった。それが社会的運動として噴出することになる。

1968年5月2日から3日にかけて、パリの学生街カルチエ・ラタンなどで大規模なデモが発生した。21日にはベトナム戦争やプラハの春事件への反対運動にまで発展し、約1000万人規模のゼネラル・ストライキが起きた。当時のシャルル・ド・ゴール大統領は、軍隊を出動させてでも鎮圧をはかるという強硬姿勢を表明した。全面対決の様相を呈したわけである。
ド・ゴールは、国民議会を解散し総選挙に打ってでる。結果は、大統領側の圧勝におわった。五月革命がフランス国民全体の意思ではなかったとして、事態は解決にむかうことになったのだ。多くの人々は革命ではなく、現状維持を選択したのである。

ところが、こうした動きが外国に飛び火することになった。若者を中心とした反体制運動が西ドイツやイタリア、日本でも展開された。街頭演説やデモ、バリケードなどがくり広げられ、社会の関心をひいた。政治の季節である。
しかし、それらの運動はやはり社会全体を巻きこむまでにはいたらず、70年代にはいるとともにその熱は急速に冷めていく。急進的な思想が過剰な暴力につながり、社会全体の運動にまで広がらなかったのだ。パリで生まれた革命の思想は挫折し、「五月」の学生たちは散り散りになって社会にまぎれていった。

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