女優の死と、ウォーホルのPOPアート
1962年の夏。
マリリン・モンローが亡くなったことを、アンディ・ウォーホルは翌日の新聞で知った。ウォーホルはすぐに彼女のエージェトに連絡をとって、映画『ナイヤガラ』のプロモーション用写真を購入している。鋭い嗅覚とためらいのない行動力は、往々にして重要な局面を制し、流れをひきよせる。
ウォーホルはモンローの写真を転写して、シルクスクリーンの作品として発表した。1960年代以降のポップアートティストたちが多用した版画の一種である。
ウォーホルの作品『マリリン』では、その顔はイラストのように簡略化され、ある種の記号として表現されている。画面をいくつかに分割し、まるでネオンサインが変化するように同じ図像を、さまざまな色で同一画面に表現したものもある。
版画の特性上、これらの作品は数多くプリントされることになる。
モンローは複製され、増殖していくのだ。
それらは豊穣と虚無のアイコンとして、アート界に衝撃をあたえることになった。ウォーホルはだれよりも乳房と消費社会の共通性をかぎとっていたのである。死が人をひきつけ、それがお金になるということを、彼は知っていた。しかもハリウッドのトップ女優の、突然の、スキャンダラスな死である。
これを作品化したことで非難の声も多かった。しかし、それ以上に、芸術の常識をくつがえした功績は大きい。ひとにぎりの天才による技巧的な一回性こそが芸術だと考えてきた主流派に、ふいの一撃を見舞ったのである。
ウォーホルは物質とスペクタクルの相関関係をかぎわつける能力にたけていたのだ。それゆえに、資本主義との親和性も高かった。
ウォーホルの『マリリン』が発表されて以降、みずからの像を模倣しつつ、わずかなズレをはらみながら<マリリン・モンロー>が社会にあふれだしていった。
その氾濫は、消費社会の曼荼羅(マンダラ)図を見るかのようだ。
曼荼羅が密教の聖域をあらわすように、複製されるマリリン・モンローは消費社会の本質にふれている。なかでも縦横三つずつ、計9つの顔をならべた展示は、画面を9分割した金剛界曼荼羅と相似形ではないか。
ウォーホルはこの前年、キャンベル・スープの缶を描くことでポップアートの口火を切った。芸術から遠ざけられてきた工業製品をモチーフにしたわけだが、もともと商業イラストレーターだったウォーホルにとって、それらはむしろ身近なものだった。
この図象をシルクスクリーンによって複製する。プラスティック製品のような均一的で増殖的な生産スタイルは、一回性の否定であり、芸術にとって最大のよりどころだったユニークネスへのアンチテーゼである。
製品=作品はくりかえし製作され、空間は均質化し、生もまた唯一性を失う。
抽象的ないい方になってしまった。もうすこし嚙み砕いておこう。
1950年代のアメリカでは、数多くの評論家たちがこぞって、社会全体に均一性が広がっている、と騒ぎ立てていた。個性がが失われ、世のなかが平板になっていくのを見て、つまらない、堕落だ、と主張したのである。
いいかえれば、画一化されていくことへの不安と恐れが、そこにあった。
こうした画一性への不安、あるいは一回性や唯一性の否定とは、いったいなんなのか。
それは、人間が人間であることの否定だろう。
予測不能であることを回避し、穏やかで破綻のない常態。もっといえば、死が世界をおおうことを意味した。その世界は、消費社会や市場主義がもたらしたものにちがいない。
しかし、ウォーホルは、この流れを批判しているのではない。
たしかに彼の作品からは、表現者の作家性さえ消滅している。個性を重んじ、オリジナルであることを矜持とした芸術世界にあって、作家の痕跡が抹殺されているのである。すべてが平等であり、無機質であり、薄っぺらで、抒情も感情移入もない。
逆説的にいえば、その態度こそが従来にない現代性をたたえ、ウォーホルに成功をもたらした。
大統領であっても、工場労働者であっても、等しくコカ・コーラを口にする世界がそこにある。
ウォーホルは、そんなアメリカを肯定していた。
ただし、その背後にあるものがたんなる発展ではなく、均質化という死であることを感じとっていたのだろう。それが魅力的だということも。
人々は、その死の影にひきよせられた。
ここにもひとり、その影に憑かれた人物がいる。二十世紀の精神分析学に多大な業績を残したカール・グスタフ・ユングである。
ユングは1914年、親交を深めていたフロイトと訣別した。考え方に食いちがいが生じていたのだ。ふたりの関係にひびがはいったのは、しかたがないことだった。ところがそのあと、ユングは道に迷ったこどものように、みずからの方向性を見失っていくことになった。
精神状態に不調をきたしはじめ、症状はしだいに悪化し、幻覚さえあらわれるようになってくる。そんな状態が2年ばかりつづいた。
ちょうど第一次世界大戦のさなかで、ユングはスイスの戦争捕虜収容所で軍医を務めていた。40歳にさしかかったころだ。いわば中年の危機を迎えていたのである。
そのころ夢のなかに、歯車のような円のかたちを見るようになった。そのかたちをくりかえしノートに描いたりもしている。これが危険な兆候だということを、ユングは勘づいていた。というのも、精神病患者たちの描く絵には、こうした円のかたちがしばしばあらわれることを知っていたからだ。
精神の均衡を失えば、原形に翻弄される。
無意識の存在を意識しなくなることで、無意識に飲みこまれてしまうのである。これは統合性の破壊であるとともに、ある種の愉悦でもあった。
ユングはやがて、この円形がある“かたち”にとても似ていることを知った。1928年のことだった。
中国学者のリヒャルト・ヴィルヘルムがユングに送ってきた錬金術の論文のなかに、それを見いだしたのである。それ、すなわち曼荼羅である。
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