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空虚な身体に宿った、現代の「ダンス・マカブル」
現代を生きる私たちの、空虚な身体を貫いているのは資本にほかならない。資本とはある意味で死であり、私たちは死とともにこの時代を踊っている。まさしく現代の「ダンス・マカブル(死の舞踏)」である。
ダンス・マカブルは、中世末期の人々が死をおそれるあまり、半狂乱となって踊り狂ったことが始まりとされる。14世紀のフランス詩に記されていたともいうが、その起源はよくわかっていない。
ただ、版画や絵画、壁画というかたちをとってそれは描かれ、人々の目にさらされた。多くの場合、死は骸骨として擬人化され、身分や性別、年齢を問わず、あらゆる人々が行列をつくって踊り狂い、墓場への道をたどっていく姿として、ヴィジュアライズされた。いわゆる集団的ヒステリーといえる状態だ。
その背景には、14世紀なかばにヨーロッパ全土で流行した黒死病(ペスト)があった。この感染症によって、当時の人口の3割から5割におよぶ人々が死んでいったのである。
資本によって私たちは死の踊りを踊る
このダンス・マカブルはその後もかたちを変え、地域を越えて、その不気味な姿をあらわすことになる。擬人化された骸骨は、ときに大衆の欲望として新大陸の金鉱脈に流れこんだり、インドや中国との貿易にかたちを変えたり、戦争という惨事をまねいたりした。ほとんどの場合、その背後で骸骨の糸をあやつっているのは資本という怪物だった。そこでは巨大なエネルギーが資本に集約され、その資本によって操作される身体は人間的主体には統合できないレベルに膨張している。
いっぽうで、膨張する身体の影に隠れて、精神はその居場所がわからなくなってしまった。
こうした状況のなか、私たちはみずからのありかを定位しにくくなっている。社会的あるいは文化的表象に占める身体の比率が拡大するにつれて、奇妙なことに身体そのものはますます不分明で曖昧なものへと霧消していく。あたかもバランスを崩すことで大量の浸水という事態をまねき、水底深くに沈んでいく難破船のようなものである。精神と身体は分断されたまま、統一をはたしにくい時代になっている。
この分断を、露骨なかたちで提示することになったのが、あのディジョンのクリスマスだった。サンタクロース人形が火あぶりにされるという不可解な出来事に、人々がおののき翻弄されたのは、分断の意味がわからなかったからだ。
その混乱をまえにして、レヴィ=ストロースは資本主義という衣装につつまれていったサンタクロースの姿を詳述していく。そうすることで、社会構造をベースにした分析をおこなったのである。あれは、異教的な資本主義にたいする教会の拒絶反応であったと。
資本主義社会では、出来事や現象はもとより、精神までもがモノ化していく。そのうしろには、欲望にとりこまれていく人々の姿が見え隠れしている。
1950年代のアメリカでセックス・シンボルとなったマリリン・モンローは、人々の欲望をその身体によってうけとめた。そこには豪華さや贅沢さ、愉楽、快感といったものが、ある種の軽薄さとともにまとわりついている。ところが、彼女の死はモノ化した豊かさをいっきにくつがえし、人々の心の底にあるものに鋭く訴えかけてくる。
マリリン・モンローはおそらく、みずからの身体が「生きられる身体」と「演じられる身体」に分離していくのを感じていたことだろう。すくなくともその体現者だったことはまちがいない。
現代社会は、直観や経験則をゆいいつのよりどころにするほど無邪気ではない。データに裏打ちされた論理的判断や思考によって、社会は維持されている。かといって、その客観性に身をゆだねきってしまうほど単純でもない。というのも、それらが現実を維持するための神話にすぎないことを知っているからだ。知ったうえで、それぞれの役割を演じている。それがスタイルになっているのだ。その意味では、現代は「演技する身体」の時代であるともいえるだろう。
「演技する身体」とマリリン・モンロー
この演技の裏側で、しかし、抑圧されたり迷子になったりした自意識の淀みが、産業廃棄物のように堆積していく。それは大都市が体現しているものである。かつては堆積物を廃棄したり浄化するために、祭りが有効な役割をはたしていた。日常という檻のなかに積もった老廃物を、富とともに消尽するのである。
ところが、祭りが儀式性を失ってイベント化していけば、それ自体が経済活動や市場メカニズムに回収されてしまう。メタフィジックスは意識の底に沈んだまま、浮上する機会を失ってしまったのである。
マリリン・モンローは1954年、新婚旅行の途中でひとり朝鮮半島にむかった。真冬の米軍キャンプをまわり、みぞれの舞う寒空のしたで、肩をあらわにしたドレスで歌いつづけた。モンローは自身の肉体を、兵士たちへの贈りものとして届けることをひきうけたのである。国家システムに組みこまれ、はるばる極東の半島に送りこまれた兵士たちにたいし、みずからの肉体を投げだして彼らの精神の救済に奉仕しようとしたのだ。
その行動は、イメージと化した身体をいま一度みずからの肉体に回収し、確認しようとしているかのようでもある。たしかに彼女の贈り物に兵士たちは歓喜したが、その返礼としてうけとったものはセックス・シンボルとしてスポットライトを浴びつづけることだった。大衆のつくりあげた自己像を生きることで、イメージという虚構は拡大しつづけるのである。そこには女優としての栄光よりもむしろ、ひとりの女性としての健気さや寂しさが漂う。
モンローの豊かな乳房は、アメリカ資本主義がひとつの頂点を迎えた時代のシンボルだった。その繁栄が社会にそそがれるように、乳房のイメージもまた人々にあたえられる。
ところが、贈与の循環はいつしかかたちを変え、身にふりかかってくるものは返礼ではなく搾取である。朝鮮戦争の兵士とはすなわち現代の消費者の姿でもある。この世界ではあらゆる身体が消費の対象になっている。とりわけ女性の肉体は快楽や癒し、救済のシンボルであると同時に、システムに利用される道具でもあった。
肉体の快楽はつねに、苦悩と手をたずさえてやってくる。エロティシズムの根っこに不安や恐怖が宿っているのは、それがけっして手づかみにできない幻の蝶であることを知っているからだ。
ウォーホルはモンローのなかに、豊穣と死のイメージをかぎとっていたのだろう。だからこそ人はその作品に酔った。それは投機の快楽とどこか似ているのかもしれない。
資本主義と欲望につて、「演技する精神」という切り口から書いてきました。序章につづく第1章に相当します。つぎからは第2章として、「群れ」に焦点をあてたものを掲載していく予定です。
1回ずつの読み切りですけれど、つづけて読んでいただくとひと連なりになっています。
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