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自分の感情を表す言葉に妥協しない

泣きたいなぁと思う瞬間、怒ったとき、もちろん楽しかったときも、その内訳の解像度を上げることに執着する自分がいます。

たとえば泣きたいとき、まず泣くけれど、泣きたさの内訳がわからないと自分でもよくわからず繰り返しぶり返して泣いてしまう気がします。他の感情も同じで、理由はわからないけど繰り返し怒ってしまったり、イライラし続けてしまう気がする。

この言語化への執着はメタ認知の一種なのかなと思っています。これをやっていくと訳もわからず自分の感情を繰り返さなくて済む感覚があります。


つい最近の大きな感情の動き

最近の私の中であった大きな感情の動きは、ある人のことを思うと湧いてくる泣きたさでした。外から見たら同情に見えるのかもしれないものだった気がします。でも自分の中で同情したい気持ちはなく、むしろそれは失礼だと感じていて。

じゃあなぜ泣きたいのかわからないからもっと考えてみると、私の中には何かしたい、掴んでもらえるかはわからないけど手を差し出したい気持ちがありました。でも、どうすれば差し出せるのか全くわからなかった。

そのとき、この泣きたさは無力感なんだと思いました。もっと自分が強ければとか、知恵があれば、何かできたのに、と思っていた。


さらにしつこく考える

無力感を突き止めてからももう少しやめずに考えてみると、私は基本的に自分を無力だとは思っていないことに気づきます。どんなときも、絶対に自分にはできることが何かあるはずだと自分を信じているという感じがあります。できることは絶対ある。それを見つけて実行したい。ただ今はそれを知らなくてわからないから何もできない。これが無力。

つまり私の無力感は「知らない」という状態と繋がっています。そしてこれはいつもの私をどこかで突き動かしているかもしれません。

なんでも気になる、知りたい、学びたい、やってみたい、そういう好奇心が普段の私にあります。それはこの無力感を味わうしんどさを知っているからかもしれない。大切な人のいざという時に無力に立ち尽くしたくない。守りたい。そういうプライドなのかもしれません。

そして、ここまで考えてなお「守りたい」という言葉と自分の気持ちがしっくりきていません。

言葉の追求は続く……。

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