痛みを可視化して
高校生になってからだろうか。重い生理痛に悩まされて、冷や汗をかきながら、日常生活をおくるのもやっとの状態になった。
もともと私はPMDDという月経前になるとうつ状態になるという症状を持っていて、学校に行く途中で涙が止まらなくなり、逆の電車に乗って、そのまま帰ったり、テストの前の夜にうつになり、勉強も手につかず、テストを欠席して、成績が低くなったり。本当に生理がある身体であることが嫌になり、生理中は子宮の機能が停止してほしい!と祈りながら、自分で自分のお腹を叩いたり、子宮を摘出する手術について調べたりしたこともあった。
1年前から、精神科に通院して、徐々に回復しているPMDDだが、やはり生理前になると怒りっぽくなったり、死にたくなったり、自分の身体なのに自分でコントロールできていないような感じになる。
さらに、最近では生理痛もますますひどくなっていることを自覚している。生理時のお腹の痛みや肩のはり、全身の不調によって、精神的な面でもさらに追い込まれていく。悪循環だ。
大学の必修の英語の授業。みんなで話したり、先生の話を聞いたり、基本的に座学の授業。出席点は成績の20%を占めている。一回休んだだけで、成績のことが不安になり、もう二度と休めない。私が完全主義的な性格なのもあるが、GPAを気にしているからこそ、出席をしなくてはならないと感じる。
でも、生理の時は、気が張り詰めていて、授業が始まる直前に「これは1コマ耐えられる体調じゃない」と判断して、抜けたこともある。でも、後からこれでよかったのか、無理してでも出席するべきだったのではないかと、罪悪感やプレッシャーが湧いてきて、私を締め付ける。
最近、生理休暇がどうして大学にないのかなと思う。
もちろんズルいと思う意見や、サボりに対する懸念もあることは知っているし、私もその考え方に賛同する。
しかし、現に私がここで痛みに苦しみながら生きていることがいつまでたっても、「自己責任」「自己管理」として語られていることにも目を向けてほしいなと思う。
生理による苦痛はたしかに「わがまま」のように聞こえるかもしれない。しかし、それは新自由主義の台頭による個人主義への傾倒でもある。また、生理がある(とりわけ生理に苦しめられている)人たちが、その考え方を内面化して、「サボること」(逃げること)は悪いことのように考えてしまっているのではないか。
他人の痛みは、実際に感じることができないし、どこまでも共感できないものだ。その人が「痛い」と言っていても、それを信じないことによって、痛みを「ないもの」にすることもできる。また、「痛い」を言えない環境や言わせない環境も、痛みの存在を「ないもの」にすることになるのだ。
だからこそ、すでに痛みが存在しているとして扱う社会になってほしいと思う。その方法としての生理休暇だろう。
これは私のわがままだろうか。