戦うのでもなく諦めるのでもなく
ギシギシの話である。ギシギシはやっかいな草で、放牧地に生えていても馬が食べない。そのくせどんどん増える。調べると、びっくりする。種子の数とか、種子の生きる年数とか、発芽率とか、根冠部からの再生力とか、なんだかすごい生命力である。常軌を逸している。強害雑草といわれるエゾノギシギシは牧場の嫌われものである。
掘り取りや刈り取りの方法は労力的に実際的でない、という話もあるが、4回刈れば再生力が低下する、地際から5センチ程度の根冠部を除去すれば再生しないともいうし、やってやれないことはない、気がする。ギシギシ用に開発された薬剤もあるにはあるということだが、ひとまず選択肢から除外。
ところで、ギシギシが好物の虫もいる。たとえばコガタルリハムシという虫。そういえばギシギシの柔らかそうな葉っぱはけっこう網の目に透けている。蓼食う虫も好き好き。
馬がイネ科の牧草を中心に食べる。人が食べはしないがタデ科の草を刈り取るもしくは掘り取る。悠長な話にも聞こえるかもしれないが、そんなウマとヒトによる放牧地での共同作業を、ヒトによる<観察>を加味しつつ、行ってみること。
今まで読んでなかったことを自分に残念、と思いつつ現在進行形で読んでいる本がある。ジル・クレマンの『動いている庭』(みすず書房)。そこに、「惑星という庭」という概念が出てくる。どこかのお家の小さな庭は、農地や放牧地や森や、あるいは都市をも巻き込みながら惑星という庭に拡張していく…。読みながらそんなイメージが勝手に脳内に去来する。惑星の大きさにまで拡張した庭の庭師は、もちろん人でもあろうが、昆虫であり、鳥であり、菌類であり、両生類であり、爬虫類であり、哺乳類であり、風であり、水であり、つまり、生命非生命を含む惑星の全住民そのものだろう。そこで起こるデザインや美は、人の脳内では把促できないタイプのものかもしれない。
当座、目前の放牧地の庭師は馬と人である。馬はイネ科担当、人はタデ科担当ということで。