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丹波の赤鬼 赤井直正

大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀を最も苦しめたと言われている武将、赤井直正。自分のことを「悪右衛門尉(あくえもんのじょう)」と言っていたそうです。右衛門尉・・・というのは、朝廷にある官位のことなんですが、それに対抗して、「俺は悪い奴なんだぜ!」と開き直って、悪という文字を付けていたとされています。

赤井家というのは、下克上でのし上がりました。当時、丹波の頂点にいた細川家から実権を奪い取り、強い勢力を誇っていた内藤家も打ち破り、丹波の実力者として知られるようになりました。

そんな赤井家の次男として産まれたのが、赤井直正。直正は、これまた強く、養子に出された先で、養父を討ち滅ぼし、城を奪い取り、そこを中心に勢力を伸ばしていきました。特に、軍事や統率のセンスがずば抜けていて、丹波から遠く離れた関東甲信越でも、その名がとどろいていたそうです。

本家では、長男が一族をまとめていたのですが、その長男が亡くなり、後を継いだのは、長男の息子でした。でも、まだ8歳。そこで、養子に出ていた次男である直正が指導者となりました。ここから赤井家は、直正を中心に、さらに勢力を拡大させていきました。

次々と周りの武将を滅ぼし、丹波の国における実力者となった頃、直正は、「丹波の赤鬼」と呼ばれるようになりました。直正の「強さ」と「悪さ」を象徴するような名前ですね。

その後、将軍足利義昭の下にいる織田信長の家臣団の一員となりますが、義昭と信長の対立が表面化してくると、直正たち丹波勢に「反信長」の機運が高まっていきます。そもそも、「織田信長」という人に忠誠を誓ったのではなく、あくまでも「足利義昭の支持者である織田信長」に従っただけなので、将軍と対立した信長に従う理由はありませんでした。

信長と対立する武田氏と意思疎通を得た直正は、反信長という態度を明確にしていきました。がしかし。。。武田信玄が亡くなり、織田軍は兵力に余裕が出てきたので、丹波平定に乗り出してきました。そこで現地に派遣されたのが、明智光秀。4年に渡る苦しい戦いが繰り広げられました。

最終的には、直正が病死。光秀の勝利となります。丹波平定に関しては、言葉では出てきましたが、この戦いが大河ドラマの中で描かれず、直正が登場しなかったことが不思議なくらい、光秀を苦しめた、赤井直正でした。

ちなみに、赤井家はその後逃走、関ヶ原の戦いでは家康のいる東軍に味方し、生き残っていきました。

ちなみにちなみに、元プロボクサーの赤井秀和さんは、直正の弟の子孫に当たるということです。


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