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戦国の魔法使い 細川政元

日本を戦国時代へと導いた人物、とも言われている細川政元。戦国時代の幕開けのきっかけとなったともいわれる「明応の政変」を引き起こした人物です。室町時代に11年も続いた戦、「応仁の乱」で、東軍の総大将だった細川勝元の嫡男で、「半将軍」と言われるほどの権力を持っていました。

その肖像画を見ても、特に変わった様子はないのですが。。。実は「戦国の三大愚人」の一人に数えられています。

子どもの頃の名前は「聡明丸」。その名の通り、聡明な子どもで、父である勝元は

「この子がいれば、細川家は安泰だ」

と言い残して、この世を去ったという言い伝えがあるそうです。この時、聡明丸は8歳。わずか8歳にして家督を継ぐことになりました。

時が経ち。大人になった政元は、将軍に次ぐ最高の役職「管領(かんれい)」を務めました。がしかし。たった9日間で辞職してしまいます。この頃からすでに、風変わりな人物だったようです。

そして政元はクーデターを起こします。「明応の政変」です。政元は10代将軍の足利義稙を追放し、11代将軍に足利義澄を擁立しました。義澄には力が無く、事実上、実権は政元が握っていました。このことから政元は、「半将軍」と呼ばれていました。

この時、追放した足利義稙は越中に逃げ、そこで政権復帰を目指したので、将軍家は2つに分裂した状態となりました。そんな中、比叡山延暦寺が足利義稙に味方をしたため、政元は比叡山延暦寺を焼き討ち、ほぼ全焼させてしまいました。この焼き討ちは、織田信長が行った比叡山焼き討ちとは比べものにならないほど、酷かったんだそうです。政元には、かなり攻撃的な一面があったんですね。

こうして、将軍よりも実質の権力を握っていた政元ですが、彼が本当になりたかったのは権力者・・・ではありませんでした。

実は、「天狗」になりたかったんです。

たとえ、戦の最中であっても突然「修行に行く」と言い出して、戦の場から離れようとすることもあり、家臣だけでなく将軍までもが、そのたびに説得にあたりました。

政元はそれからも天狗になるべく、空を飛ぶ練習をしたり、魔法の練習をしたり、山にこもって修行をしたり・・・。それにのめりこみすぎたためか、女性を近づけることさえせず、生涯独身、子どもがいませんでした。でも、後継者が必要です。ということで、養子をとるのですが、なぜか3人も養子をとってしまったために後継者争いが起き、最終的にはその争いに巻き込まれて、家臣に暗殺されてしまったそうです。。


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