比叡山 焼き討ち
織田信長が明智光秀を大将として行った、比叡山の焼き討ち。
比叡山には延暦寺とお寺があって、素晴らしい僧侶もおりました。が。。
現代のお坊さんから想像しずらいのですが、当時は、自分たちを守るため、僧兵と呼ばれる集団がいて、戦国大名にも引けを取らない軍を持つ軍事拠点でした。また、民衆からお金を奪ったり、禁止されているお肉を食べたりと、やりたい放題だったそうです。
そして、信長が越前の朝倉家を攻め込んだ時、同盟を結んでいたはずの浅井家が裏切り、浅井朝倉連合軍と信長は敵対関係となりました。何度か戦が行われ、信長に負けた浅井朝倉連合軍は、比叡山延暦寺に逃げ込み、延暦寺は浅井朝倉連合軍をかくまいました。
天下を狙う信長にとって、京都に近く、敵対する浅井朝倉連合軍をかくまっているだけでなく、強い一大軍事力を持ち、権力のおぼれて堕落した比叡山延暦寺は、目障りなだけの存在となっていきました。
それでも、いきなり火を放って攻め込むのではなく、事前に何度か、信長に味方するように頼んだのですが、延暦寺はそれを虫して、浅井朝倉連合軍の味方を続けたので、ついに焼き討ちが行われました。
4日間も黒煙が上がり続け、建物はほとんど焼き払われ、そこにいた僧侶だけでなく、女性や子どもも皆殺しにされてしまった・・・というのが通説です。しかし。。最近の研究では、違う説も浮上してきました。
焼き討ちをしていたら見つかるはずの燃えた木材や、何千人も殺していたら出てくるはずの骨も、それほど多く出土しなかったんだそうです。
それに少し前までは、光秀は焼き討ちに気が進まず、信長を止めようとして怒りを買ったとされていましたが、焼き討ちが行われる10日前に、光秀が味方に付けたい人に送った手紙が発見され、内容が「比叡山の件、ぜひとも皆殺しにしよう」というものだったそうです。
光秀は、積極的に皆殺しをしたのか・・・。それとも、積極的に皆殺しをしたと見せかけて、実は僧侶たちを逃がしていたのか・・・。真実は誰にもわからない、歴史ロマンですね。
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