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継続しないのも力なり

毎日のように書き続ける。

何度もここで愚痴っているけど、それができたらどんなにいいだろう。他の事柄にも通じるけど「続ける」は鬼のように悪魔のように難しいと、つくづく思う。続けるのも才能なんじゃないかと。

でも、全員とはもちろん括らないけど、世の中は続けるのを美徳とする節がある気がする。なんというか、続けられない人を下に見るような。この感覚は、私だけかもしれないが。

そこに、なんだか圧を覚える。

*継続しない決断も大変

続ける精神・耐える精神が無意味だとは言わないし、否定もしない。続けてこそ生まれるものもあるし、根性が身につく人もいるし、それらを身につけたい人もいるだろうし。それはそれでとてもとても素晴らしく、誰に何を言われる筋合いもない。

その上で、それを踏まえて、

継続だけが力じゃない

とも言えると思う。継続は力なりだけど、無理に継続して心身がぼろぼろになっては元も子も孫もないし。かといって、継続するしか選択肢がない人もいるから、さらっと「そこまでなら辞めればいいじゃん」で済む話でもない。

継続するのも大変だろうけど、継続しない決断をするのも大変だったりする。よく考えれば分かる事だろうのに、ここを汲んでくれない人だと、私個人の調べでは結構な確率で

「根性なし」

とたった一言で斬られて死ぬ。別の言葉の場合もあるけど、いずれにしても呆れた目とともに斬られて死ぬ。私自身も、これまでいろいろなものを手放してきた。ひとつひとつ、涙しながら諦めてきた。苦しみながらバイバイしてきた。でも、周りは

「根性なし」

そうひっくるめて、丸めて、肩がちぎれるんちゃうかと思うほど振りかぶって投げつけてくる。そして、心はえぐれる。で、やっぱ死ぬ。

*やれない歯がゆさ

私は積極的に人と関わってきた人間じゃない。だから、私は私のケースしか語れないけど。それを前提に言えば、やらない事にしたからって楽できるとは限らない。

例えば、私はすぐ体調が崩れるし、起き上がるのが大変な時もざら。心も同じで、ロバスト性(頑強性)があまりないほうだから、周りにあれこれ言われるたびに欠ける。

そんなタイプの自分が、苦悩して苦悩して苦悩して決断した「もうやれないからやらない」だから、決断した後はゆっくり休みたい。のに、周りはその気持ちに馬乗りになってくる。

「根性が足りないんだ」と一発。
「そんなんでどうする」と二発。
「みんなできてるのに」と三発。
「なんでこれくらいができない?」と四発。

コンボがあまりにもすごくて、楽になるどころじゃない。韻を踏んで恐縮だけど、サイコの殺人かよと思ってしまうほど、全然休ませてもらえない。その結果、感情は消えて、やれない自分を責めるしかなくなる。

みんなができる事を自分はできないから、つまり自分は人間ですらないんだ。こんな自分は、楽になろうとしてはいけないんだ。ていうか、生きていてはいけないんだ。

こういう思考になっていく。

やれない歯がゆさに寄り添ってほしいだけなのに。継続「は」力なりと、継続だけが正義かのような流れに、私はついていけない。

*まとめ

noteを始めて2年数ヶ月になる中、どうにか継続できているのは「誰にも邪魔されずに自分のペースでいいから」に他ならない。(それ以前に読んでくれるあなたのおかげなのは毎回言っている通り)

毎日書くなんて真似はできないけど、確実に届けられている実感がある。私は、急がされると良い物を作れない奴なんだろう。「急がなくていいよ」との寄り添いがあるからこそ、逆に良い物を作れる奴なんだろう。そう思う。

周りの理解があれば意外とできる。

「何事も」とも「全員」とも決めつけないけど、あるのとないのとでは私にとっては大きく違う。不自由な環境に、不自由な心身に、嫌気がさしたりもするけど。

「なんとかしたい!」

その一念を捨てずに訴えていられるのは、継続して持ち続けていられるのは、私を「根性なし」と罵るタイプの人じゃない、温かな人がここにいるから。理解してもらっている見返りじゃないけど、私も罵らないタイプの人になりたいと思う。責めないタイプの人になりたいと思う。

「継続するのも力になるけど、別の道を選ぶ事だって『勇気をもって決断する力』や『最適な場所を考える力』になったりすると思うよ」と。

継続は力なり

じゃなくて

継続しないのも力なり

であると。

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エトナシ サラ
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