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自分の小説を朗読するということ——札幌ラボをめぐって

 先日、北海道に行ってきた。そこで山下澄人さんのラボに参加した。

 
 今日は、もっと突っ込んだ中身の話をしていこう。
 今回のラボはいつものラボとはちょっと違って書いたものを持ってきていいよ、とされていた。

 せっかくだからとわたしは北海道に向かう飛行機の中で1200字ほどの小説を書いた。いつもラボは前に二脚椅子が置かれていて、そこに二人が出て、さあ始めようと無策に始まるのだが、今回は書いたものについて「あーだこーだいうやつ」とある。だから、ある意味「読書会」みたいなものか、何か書いていけばとりあえず大丈夫だな、とちょっと安心していた。

 その安心は、すぐに裏切られた。

 2025年1月25日土曜日13時、琴似レッドベリースタジオでラボが始まった。山下さんが書いたものある人、と呼びかけると、わたしを含め二、三人が手を挙げた。一発目はやだな。じゃあ、あなたとあなた。わたしじゃない、年配の男性二人が前に出た。
 右側の男性がポケットから四つに折った紙を取り出し、広げて読む。読みます。ミニが歩いていると……。何の話? 声が小さくてよくきこえない。必死に耳を澄ませる。辺りはすごく静か。雪が積もっている。男性が読み終わった。何かいって。山下澄人が左の男性に呼びかける。左の男性が話出す。ええと……犬、犬の話ですよね? そう、かわいい。
 そこでわたしはあっ! と思った。普通に滑らかにラボになっているではないか。あくまで最初は書いたものの朗読なのだが、それから先はその書いたものがありつつ、それをきいた耳と身体がありつつ、いつものラボになっている。生半可じゃない。書いたものを読んでみんなでざっくばらんに話し合うとかそんな生ぬるいところじゃないのだ、ここは。わたしはそう感じ、覚悟を決めた。

 次はわたしの番だった。わたしと男性が前に出る。パソコンを膝に乗せて、わたしは書いてきたものを読み始めた。読み終わった。どう? といって左を向いた。…………男性は黙っている。

 書いてきたものをコピーした紙とか冊子とかが、見て聞いている者の手元にないのが大事だった。だから、観客は朗読をききながら必死にイメージする必要があった。次々と頭の中をイメージともいえないその手前の「何か」が過ぎる。
 後になって、参加した人にわたしの朗読はすごく早口だった、といわれた。わかりにくかったというか、わからせる気がそもそもなかったんじゃないか。そのようにしかきこえなかった。あれじゃ、せっかく書いてきたものがかわいそうだ。
 わたしは愕然とした。わたしは自分が書いてきたものを朗読する、というそのことについて、まるで真剣に考えていなかった。ただ、思うまま適当に読んでしまった。もっといえば「朗読」のことをどこかで軽んじていた。書いたら自分の役目はオシマイ、書かれたものが全て、というように。しかしわたしは、それを親切にきいてくれる人がいるのだから、せめて理解しやすいようにもっと思いやりを持って朗読すべきだった。
 少し大きな話になるが、詩人はよく朗読をするが、小説家はあまり朗読をしない。これは普通のことのようだが、実は日本特有の習慣だ。海外には小説家も当たり前のように自作を朗読する習慣がある。オースターやブコウスキー(ブコウスキーは詩人でもあるが)が朗読をする動画を見たことがある人もいると思う。「自分の小説を朗読する」ということの大事さが、わたしの中から、すっぽり抜け落ちていたのだ。

 ラボに戻ろう。

 どう?
 あんまりどこがどうとか……。
 じゃあ、もう一回読む?
 ああ、うん。
「記憶の中では紅葉していた気がしたが実際はどうだったのか、そのとき、結婚しよう、とヨシオさんがいった」あ、だからさっき〈結婚〉っていったの?
 え、いや、違う。てか、そんな場面あったっけ?
 えーと、じゃあもう一回続きから読むと。

 わたしが書いた小説がわたしの朗読を通して、隣の人に、観客に、投げかけられる。その後に起こる対話は、その小説を受けてその内容について深く、みたいには簡単にいかない。あれ、どんな場面があったっけ? そもそもどんな話? こんな調子でもっとずっと手前から始まる。そのとき、「読めば伝わるはずだ」という刷り込みは一撃で崩れる。かといって、伝わらなくて悔しい悲しいと落ち込むわけでもない。手前にいるなら手前から始めればいい。きっと想定したよりずっと手前にいるからこそ、全く違ったところに二人で踏み出していける。

「書かれた文章」、「それを読む作者の朗読」、「それを隣で受ける人」、「それらを見て聞いている人々」、「朗読の後に始まる会話」、「これらの場や空気」。要素にして書くとこんなに複雑だが、そういった込み入った感じは少しも感じない。「馴れ合いのなさ」が、それを支えている。


           —————***—————


 札幌ラボでのことをこうして改めて書いてみたが、言葉にするのは難しかった。それでも、書いてみた。どうでしょうか。そしてわたしは今、これまで書いてきた小説をまとめて、独力で本をつくろうとしている。果たして、あれらの小説を本のカタチにする必要って、ほんとにあるのだろうか。それよりもわたしは全国を練り歩いてそれらの小説を朗読して回れれば、そっちの方がずっといいんじゃないか。ああ、書いた小説が賞をとるとか、本として出版されるとか、それがおもしろいやらおもしろくないやらと評価されるとか、そうしたことが一気に洗われたのような気分だ。結局、ラボについて、小説について、結論は出ていない。続けるのみだ。





 


 


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