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日記の日付が消えるとき——『小島信夫の話をしたいのだけれど』をめぐって


はじめに

 富田ララフネという人が書いた『小島信夫の話をしたいのだけれど』という本を読んだ。副題には「長い小説を読むことが生活に与える影響についてのレポート」とある。長い副題だ。

富田ララフネ『小島信夫の話をしたいのだけれど』

「レポート」とあるのだから、わたしはこれを最近流行りの「日記」や「エッセイ」か何かなのだろうと思い、読んだ。
 数ページ読み、わたしは鈍器で殴られたように直観した。
 これは、小説じゃないか!
 途端にわたしは興奮した。

「レポート」というグズグズ

「このごろずっと、小島信夫の『寓話』という小説を読んでいた」という書き出しで本書は始まる。『寓話』とは小島信夫という作家が60代のときに書いた作者の代表的な長編

そのあとこう続く。「それがついに終わりそうで、しかしその読み終える前から、私はすでに『寓話』のことではない、もっと別のことを考え始めていた」。この「別のこと」について、一口にいうことは到底できないだろうと留保した上で、作者はこういう。「私はこれから、私の個別具体的なことを駆り集めて、長い小説を読むことと生活の関係の話をしようと思う」。
 
つまり作者は『寓話』を読みながら、『寓話』を読んでいる自分や、それらを取り巻く様々のものに思いを馳せ、いつしか『寓話』を飛び越え、今そこにある「生活」にまでジャンプし、大ゲサにいうと「人生」めいたものにまで手をかけようとしているように見える。ある小説を読むことによって生活が微妙に変化していくこと。あるいは、生活によって小説を読むことが微妙に変化していくこと。そうした関係に着目することは必ずしも珍しいことではないが、後藤明生なんて特にそうだ、それをこうして冒頭からきちんと説明していくところに、わたしは作者の律儀さを感じ、かわいいと思う。「レポート」とはそういうことか、と思う。この冒頭の作者の書き振りは確かにまるでレポートのようだ。
「まずはこれをします。その理由はこうです。それによってこれをこうしていきたいです。それではまずは最初に……」
 しかし小説というものは、貪欲に目を光らせているものだ。事前に設定されたレポートの項目はいつしか小説に飲み込まれていく。そう、書き進めていくうちにレポートの律儀さは綻びを見せ、そのスキマから、予想だにしなかった様々なことやものが次々やってくる。『小島信夫の話をしたいのだけれど』の場合それは「思い出すこと」に対応している。作者がまるで日記やエッセイやレポートみたいな身振りで「ここにいった」「これを読んだ」「これを食べた」と律儀に書けば書くほど、それとは裏腹に、この280ページの文章に「かわうそくんの部屋の目覚まし時計」や「ハワード・ジョンソンというホテル」や「かなしい坂」や「徳川家慶」が思い出され召喚されていく。そうやってレポートはどんどん小説になっていく。
 思えばエッセイでもない日記でもないかといって正式な論文でもない「レポート」は、それ自体グズグズとした境界のボヤけたアイマイなものであり、それは小説らしく書かれた小説よりもよっぽど予想外のものを召喚することに向いているのであろう。それには作者のとても律儀なようで、それでいて、実はどこか抜けたところがある調子も一役買っているのであろう。
 しかしほんとうに大事な大事な、ここが肝心カナメで、作家の急所ともいうべきところは、「小説」になったその先で、どうやって「小説の外」に漕ぎ出していくかということなのだが、一旦まずは、『小島信夫の話をしたいのだけれど』のことに戻ろう。

「レポート」から「小説」へ

 この文章の主人公「私」は会社員で、結婚相手のQと一緒に暮らしている。「私」は小島信夫の『寓話』という長編を読み、しかしそれ以外の小説もたくさん読んでいて、働きながらよくこんなに読めるなと思うのだが、作中には庄野潤三やプルーストやミシェル・レリスや武田泰淳やその他たくさんの文が引用される。「私」とQのことを中心に文章は進められる。恬淡としていてそんなふうには書かれていないのだが、「私」の頭にはいつもどこかにQがいる。「私」には、ときに目の前のQと話しながら、同時に頭の中にいるQと会話をしているような気配さえある。これは流石にいい過ぎか。しかしわたしにはこの文章全体が、Qへの手紙であり、それも恋文の一種のように思えてならない。
 ただ読んでみると、話はそんな直線的ではなく、脱線したり道草したりする。上の下手な要約はわたしが枝葉を切り落としただけだ。脱線させるのは、「私」がほんとうに頻繁に「思い出す」からだ。
 文章はきちんと章立てされていて、その書き出しは大体こんなふうに始まる。


 だから本当は『寓話』の話をしたいのだけれど、私はいま、ちょうど庄野潤三『明夫と良二』を読んでいた。

『小島信夫の話をしたいのだけれど』p.14

 このように多くの章が「『寓話』の話をしたいのだけれど……」と逆説で始まり、その後、文章は逆説の力学の通り脱線していく。

15
私は『寓話』の話をしたいのだけれど、桜はまだ咲いていて散らない。

『小島信夫の話をしたいのだけれど』p.111

19
『寓話』の話をしようと思うのだが、いま私の視線の先にりんごがある。

『小島信夫の話をしたいのだけれど』p.120

 こうして律儀に繰り返される冒頭の「私は『寓話』の話をしたいのだけれど」の逆説は、まるで日記の日付のようだ。この小説は、今ページを失念して何回探しても見つからないだから正確にはわからない、約半年をかけて書かれたという。長い時間をかけて小説を書くとわかるのだが、わたし自身ここ六年ほどずっと小説を書いてきて今それを本にして出版しようとしているからよくわかるのだが、書いているうちに「書いている」ということ自体が危うくなったりする。書いているのに書いていること自体を疑わせたりする変なところが、小説にはある。
 その分日記は安定している。
「◎月◎日」と書いて、そこから始めるルールは、書き手に大きな安心感をもたらす(もちろん、その安心感は読み手にも強く生じる。これは大事なことだ)。日付によって書き手も読み手も一瞬現実に還る。「現実」がチラつく(「現実」なんてものがあるとすればだが!)。そうだ、日付の区切りは、このわたしたちが生きている「現実」に繋がっている。
 わたしは作者が自分のいる位置を確かめるみたいに、欠陥だらけの「家」みたいに、海の中に消えゆくロープに触ってみてそれがしっかり錨へと伸びているのを確認するように、深呼吸をするように、「私は『寓話』の話をしたいのだけれど」とまずはノートに書きつけてみたことを空想する。


 しかし実際には、すべての章が「『寓話』の話をしたいのだけれど」と始まるのではなく、おそらく四割、もしかしたら半分くらいはそれ抜きに始まる。

10
 Qはまたベッドの上で泣いていた。特に泣く理由はないのに、理由がなくとも泣くのだという。

『小島信夫の話をしたいのだけれど』p.72

21
 この夜、Qはまだ帰ってこず、私はひとり屋上で、『人類の深奥に秘められた記憶』という小説を読んでいた。セネガル人作家の小説だった。

『小島信夫の話をしたいのだけれど』p.148

32
 かわうそくんがピアノを買った。私はそれを神保町の交差点近く、ラーメン屋の二階にある、変な形をした狭い餃子屋で聞いていた。

『小島信夫の話をしたいのだけれど』p.225

 わたしはここに確かな小説の片鱗を見る。「『寓話』の話をしたいのだけれど」と始めず、うねりだした文章と文章のスキマに導かれるように言葉が続いていく。一つ先の空白を埋めたら、次の瞬間また新たな空白ができ、それを何とか埋めたら、またまた新たな空白ができる、ちくしょう今度こそ何とか……。まるで煮え切らないイタチごっこのようだが、もはやこの期に及んで、イタチに「追いつくか・追いつかないか」などという二元論的な勝敗は全くもってどうでもいい。勝ち負けなんか、目じゃないんだ。必死にイタチを追いかけ追いかけ、やっとこの手に掴まえたと思い、しかしスルリとしなやかな尾は手から逃れる。その思わぬ硬い冷たさにハッとして顔を上げると遥か彼方を走っているのはイタチではなく竜だった……。こんなふうに書ければ、小説は、書き手は、気づけば思いもよらない「どこか」へと踏み出しているのであろう。
 思えばそう、小説というのは、そもそも構想していた確固たる土台から羽ばたき、あえて不安定なところへと踏み出していく「動き」そのものなのである。「『寓話』の話をしたいのだけれど」から「かわうそくんがピアノを買った」へと、こうして日付が消えていくとき、『寓話』から離れて「レポート」は自由に「小説」へと漕ぎ出していく。そんな「動き」が静かにしかしスリリングに生じているところにわたしは感動する。
 これは六年の歳月もかけて『寓話』を書いたその作者が浜仲からの手紙を中断させ、他の人の手紙(茂子の手紙など)に、思い切って漕ぎ出していったことに似ている。

 しかしこう書いてきたが、散々書いて結局何なんだ! という感じだが、自由に小説に漕ぎ出した作者の頭から『寓話』が離れなかったことは一度もないといっていい。なぜなら『寓話』こそ、「小説」から「小説の外」へと漕ぎ出していった粘り強い「動き」そのものみたいな小説なのだから。煮え切らなさや結論の出なさこそが『寓話』であり、小島信夫なのだ。

思い出すことについて

 その他、この小説で「私」はほんとうによく思い出す。しかも思い出すときは律儀に「と思い出した」と書かれる。「私」はよく海外旅行に行っているようで、海外でのことを思い出すことが多い。あくまで多いというだけで、人間だから、それ以外のことを思い出すこともある。かわうそくんの話。大学のテントの中での飲み会の話。そばの話。メキシコの娼婦の話。猫ビルの話。

そんなQを見つめながら、私は以前にも同じようなことがあったのを思い出していた。かわうそくんと一緒に住んでいたころ、あれは午前五時とかそれくらいだったと思うけれど、かわうそくんの部屋の目覚まし時計が鳴り、その音は一向に止まる気配がなかった。

『小島信夫の話をしたいのだけれど』p.194

ホテルの名前、いま思い出した。ハワード・ジョンソンというホテルだった。

『小島信夫の話をしたいのだけれど』p.146

 作中で『失われた時を求めて』を「私」が読んでいることからも分かるが、この小説で「私」は「記憶」について執拗に考える。それがこの書きっぷりと『寓話』と『寓話』を六年かけて書くことに関係していることは、もう明らかであろう。
 ここまで書いて、わたしはこの小説の中身について殆ど書いていないことに気づく。今まで書いたのはもっとその手前のことだ。中身については、この先、また考えるとしよう。今回はここまでにしておきましょう。

おわりに

 この小説は、難しいことや、大変なことがあっても、いつも明るく書かれていて、それは視点を変えれば起伏が少なく一本調子だといえないこともない、しかしそれがわたしにはとても好感が持てた。キング・クリムゾンで踊る場面が好きだ。

 かわいい小説だ。


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