発達 ≠ 尊厳
わたしの夫は教員なので
たまにわたしが家で熱弁すると
「今度そのテーマで授業しに来てよ」と冗談交じりに言う。
もしもの話… 今わたしがほんとうに
「講演会してほしい!」なんて頼まれたとしたら
今わたしは何を伝えたいんだろう?と真剣に考えてみた。
結局のところ、これからわたしは、自分の活動を通して何を伝えてゆきたいんやろう?と。
出てきた答えは本当にシンプルで。
タイトルにある『発達 ≠ 尊厳』
つまり、
『発達は決して尊厳と結びつかない』
ということ。
ここでの発達とは、文字通り成長・発達・発育を指し、才能や資質を含みます。
尊厳とは、わたしたちの存在の価値そのもの。
保育園、あるいは小学校の道徳で1番初めに習うのではないか?という、命の尊さや、その価値の等しさ。
わたしたちが生きる上で当たり前のことであり、当たり前であるからこそ、この大切さを忘れてゆくのもまた、哀しいかな 事実である。
例えば、乳児期から始まる健診。
平均値を基準に様々な分野からチェックされる。
その子の発達を多角的な面からしっかりと理解するのはもちろん大切なことであり、必要に応じた対応はとっていくべきだと思う。
でも、その中で、第一声から、
「あ〜、○○が遅いね。もし○歳になってもこれやと、ヤバいね。その時はすぐ病院ですね。」
と、結果だけを見て、呆れたように吐き捨てる医師もいた。
わたしは、ただただ悔しくて、悲しかった。
内容については当に氣づいていたから
そこに対してのショックというものではなく
その日の結果ひとつで向けられた
大切な娘をまるで異物を見るような態度が 言葉が
ただただ、悲しかった。
『風の時代』という言葉を耳にする人も、もう少なくはないだろう。
これは、占星術の観点から見た、220年単位で変わるミューテーションと呼ばれるエレメントの切り替わりを意味し、
2020年12月22日から、地の時代(物質権力主義)→風の時代(精神・心・個人を大切にする)に入ってきているため、
少しずつ、わたしを始め、たくさんの方々が個人の自由や尊厳を尊重する流れを感じ、他人軸から自分軸への目覚めがあったり、生き方や仕事のあり方等を通して、体現する人が増えてきている。
だが、正直な所まだまだ、先に挙げた医師のような方がいたり、集団生活においては特に同調圧力があり、型にはめようとしたり、それにそぐわないものに対して嫌悪感を露わにしたり、何らかのレッテルを貼ろうとする、社会全体に存在するエネルギーやプレッシャーのようなものを感じている。
その内容というよりかは、心無い言葉・言い方・態度に胸がえぐられ、自分やわが子を責めてしまう保護者もいるし、本人がそれなりに大きければ、心に傷を負うことも少なくは無い。
(地の時代があったからこその今の風の時代でもあるので、善悪を唱えたり否定をする訳では決してありません。ただの事実としてお受け取りください。)
実際に保育士時代にたくさんの保護者さんから相談を受けたり、現在セラピストとしてカウンセリングで伺うお悩みの中でも、根幹にあるのは結局のところ、この部分である。
みんな、自分の存在の尊さや価値というものを、どこかで見失い、無意識に探している。
子どもだけでなく、年齢問わず、
仕事ができる、できない
作業が速い、遅い
愛想がいい、よくない
手先が器用、不器用
性別に反して
女性らしくない、男性らしくない
等 様々な発達の姿がある。
本当に本人が望む方へ変わりたいのであれば
努力でどうにかできる。
努力しないからだ。
努力が足りないからだ。
確かに、そういう時もあるかもしれない。
ただ、それはそれで、これはこれであって、
何かができる・できないということと
だからぞんざいに扱っていいとか
だから価値がないとか
だから人より劣っているとか
そういうことは ほんとうに『有り得ない』ということを、わたしは改めてここに残したい。
そもそも、全く持って、
発達と尊厳は別のところに位置していて
イコールでもなければ
ほんとうは並べるものでもない。
必要に応じてサポートすることはあっても、
何がどうあっても、
わたしたち一人一人の尊厳が脅かされることは有り得ないのだ。
そもそも、わたしたちは、何のために子どもの、他者の、自分の、発達を理解しようとするのだろう。
愛し、愛されるために
その命を大切に扱うために
共に生きてゆくために
やがて 自立し 自分らしく生きてゆけるように
サポートするためなのでは、ないのだろうか。
仕事とは言えど
社会的な役割だと言えど
いつからか この『目的と手段』が
すり変わってはいないだろうか。
8年間保育士としてたくさんの子どもと関わらせてもらってきたからこそ感じるのは
言葉を話すのが平均より速い子もいれば
口が解けるのがゆっくりな子もいる
その個人差は1年やそれ以上にも渡り
歩行も身長も体重もそれぞれのペースがある
これは、
走るのが速い子と遅い子がいたり
食べるのが得意な子と少食で偏食な子がいるのと
まったく同じことだと、わたしは捉えている。
もちろん関わり方は大切だ。
そんなことは 過去の保育でも 子育て中の今でもしみじみと痛感している。
でも、それ以前に、その子の発達云々に対して「遅いからこの子は劣っているんだ」等と、善悪をジャッジすることは、ほんとうに必要だろうか?
人の発達の姿に、そもそも善悪などない。
ただ、『そういう発達なだけ』であって
発達と、その子の存在の価値は、イコールではない。
なのにわたしたちはいつからか
目に見えるもの
平均
常識
みんなと同じ
ばかりに気を取られては、いないだろうか。
これは子どもに対してだけでなく
すべてのことに今一度当てはめてみてほしい。
子どもの姿は わたしたち自身の姿でもあり
一見小さく見えてしまう彼らの世界は
いつだってこの世界の本質の縮図のようなものだ。
例え 何をどう感じても
どんな姿形をしていようとも
奪っていい命などないし、
ぞんざいに扱っていい存在などいない。
もちろん、
「こういうところ嫌やなぁ」
「イライラするなぁ」
「関わりたくないなぁ」
と、感じることは自由だし、感じるままに感じたらいい。
でも、じゃあ、自分を含め 誰かが悪いのか?
誰かが責められることなのか?
攻撃したいのか?傷つけたいのか?
ほんとうに、そのことで、その人の、自分の価値は、揺らぐのか?
と、一度考えてみてほしい。
子どもが パートナーが 親が
何を感じても 何をどう行動しても
わたしたち一人ひとりの価値が変わること
尊厳が脅かされることはない。
尊ばれない理由など、そもそも、どこにだって、誰にだって、ない。
ブッダの言葉でも『天上天下唯我独尊』という
有名なものがある。
改めて、「わたしは発達 ≠ 尊厳ということを伝えゆきたいんだ!」と思い立った瞬間に
脳裏にバッと現れた言葉だ。
意味は、
『他と比べて自分のほうが尊いということではない。
天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、この命のままに尊い。』ということ。
ほんとうにその通りだ。
今ならこの言葉の意味が より深く理解できる。
外側で例え何が起こったとしても
内側にあるわたしたちの存在の価値が 尊厳が 揺らぐことなんて何一つない。
だから、例え傷ついたとしても
傷つけてしまったとしても
それはわたしたちの本心や本願ではなく
その時の感情の仕業でしか過ぎない。
…はずなのに、
先に挙げた例のごとく
わたしたちは
家庭や集団生活の中で
誰かの何かの言葉や態度によって
少しずつ 少しずつ 確かに
自分の価値を見失ってゆく。
才能や発達が『人より劣っている』とジャッジし、
あるいはジャッジされ、
『自分は人より価値がない』と落ち込み
繊細で真面目な人程、自信を失い、精神的に病んでいく。
子どもの時から、無意識下の中で、この刷り込みは始まっている。
こうして作られた自分のモノサシは
やがて 差別や偏見を産み
理解できないものを拒否し、攻撃する概念へと変わってゆく。
あまりにも静かに、確実に、そして無意識に、じわじわと…
異質なものに対する理解と寛容の精神を、蝕んでゆくのだ。
だからこそ わたしは、
今こそ、誰もが知っているこの当たり前なことを、当たり前だと、伝え続けてゆきたい。
『発達は大切だが、サポートをしやすいように付けた目印のようなものであり、個人の尊厳と結びつけるものではない。』
ということを。
発達への理解(目に見えるもの)の大切さを蔑ろにするわけでは決してなく、
ただ、ソレと人の尊厳をイコールにして
結びつけて
「だから自分(あなた)はダメなんだ」と、卑下したり、価値を下げようとすることは
お門違いだよ〜!と、声を大にして言いたい。
そもそも、本質的に、
発達と尊厳というものは
全く持って別のところにあるものだということを
わたしは 伝え続けてゆきたいのだ。
(だから、あえて、このタイトルにした。)
このことをしっかりと腑に落として
体現してゆく方法のバリエーションとして
わたしは自己受容や自己愛、内観の大切さを
様々な活動を通して伝えたい。
あなたが、この世界が、
自分と他者の尊厳 存在の尊さを
頭だけでなく、完全に腑に落ち、体現してゆく
その瞬間まで。
わたしたちは
霊的に言えば源はひとつであれど、
それぞれがそれぞれの発達という個性を持った、異なる存在である。
個人の意見を殺して一緒にする、混ぜる、なんてことは
そもそも、不可能だ。
不完全に見えていたとしても、
むしろその不完全こそが、完璧な人間の姿なのではないだろうか?と思うほどに
結局愛されるのはいつだって、ちょっと抜けていたり矛盾やギャップがあったりという、人間味溢れる部分だったりもする。
そんなお互いの尊厳が守られた世界で
お互いの尊厳を願い祈る人が創造する世界は
どんなに美しく どんなに自由だろうと
わたしは 創造せずにはいられない。
そして、2024年11月20日から、冥王星が山羊座(地のエレメント・物質権力主義の世界)から水瓶座(風のエレメント・個人が尊重されるわけ隔てのない世界)へ完全に移動する。
この約2年の移行期間を終え、
本格的な『風の時代』が始まるのだ。
もう、いよいよ、地の時代には戻れない。
もう、意志をなくして全員が同じように並んで〝みんな一緒〟に安心して進む時代では、はっきり言ってなくなる。
大きく時代が変わるからこそ、地球規模で様々なことが起こっているし、これからも起こってゆく。
起こる出来事に翻弄されずに、それぞれがそれぞれの主体性を持ち、目に見えているものだけに囚われずに、そこにある本質にどれだけ他者ではなく『自分自身の曇りなき眼』で見つめることができるのか?行動してゆけるのか?という所が、問われてゆくだろう。
そしてやがて、この概念が当たり前になる。
わたしたちそれぞれが尊重される
わたしたちの心が反映されてゆく
新しい時代が始まる。
それが、宇宙が描くシナリオだ。
誰にだって、得意なことと、苦手なことがある。
それは、ジャンルを問わず、
大人だから 子どもだから
男性だから 女性だから
ではなく、全ての存在に等しく言えること。
ただ、その1つ1つが 自分にとって重要なことである程に、些細なことでも酷く悩むし 人と比べる。
悩んだっていい。
比べたっていい。
極論、劣っていると感じても大丈夫。
だとしても、
あなたが何をどう感じても、
誰かがどんな言葉やエネルギーや態度をあなたに向けたとしても、
あなたの価値は
生まれた時から 生まれる前から
ずっとずっと変わらないよ。
あなたは
ただここにいるだけで尊い存在であって
それは何があったとしても
例えあなたがどう感じていたとしても
決して脅かされるものではないんだよ。
と、わたしはわたしの生涯を通して
あなたに、娘たちに、伝えて続けてゆきたい。
これがわたしの根っこにある願いです。
~ 補足 ~
霊的な視点から解説すると
わたしに強い口調で言い放った医師の方も
日々様々な姿を見せてくれる娘の姿も
全て、わたしにとって、
目に見えない本質の大切さを伝え続けてくれているギフトであり
いつだって最善で必要なメッセンジャーです。
今回は例として当時の感情に強めにフォーカスした書き方となりましたが、ほんとうに伝えたいのは「こういうことがあった」という事実であり、そこに対する善悪のジャッジはありません。
ただ、そこを踏まえた上で、人間の本質にある根本的な部分を、誰もが持っている当たり前の権利を、感覚を、今一度思い出してもらう何かのきっかけになれば嬉しいなと思い、この文章を綴りました。
読んでくださったあなたへ
心から感謝いたします(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)
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2024.10.15 泉
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