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王宮庭園ラプソディ

王宮庭園の影で一人うずくまり、ぼろぼろ涙をこぼしていたエンベレーナの背後から声を掛けた十二・三歳位の少年―このニルギス国の第二王子ソルヴィンセスだと後で知った―が、その時見せた表情は絶対に忘れない。
 そりゃあ、我ながら凄い顏をしていたと思う。えぐえぐと、必死で声を殺そうとした喉から漏れる喘鳴ぜいめいは何か小動物を絞殺した様な音だったと思うし、天使の様に愛らしいと評判の顏だって涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていたし、ひどい有様だったのは間違いない。
 だってだって仕方がないじゃない。
 エンベレーナは、初めての恋と大失恋を一度に経験してしまって、庭園の奥に逃げ込んでいたのだ。
 そのレディを前にあれはないと思う。騎士として、いっそ王子としての品位を疑うレベル。
 ソルヴィンセスは、振り向いたエンベレーナの顏を見るなりぽかんとし、あろうことか、ぶーっと吹き出したのだ。
 あり得ない!あり得ない!泣き崩れている(ぐちゃぐちゃの顏かもしれないが)レディを前に、吹き出す!
「だ、大丈夫ですかエンベレーナ姫。」
 必死に笑いをこらえて差し出しされた、素晴らしく繊細で豪奢な刺繍が施されたハンカチーフ。
「何よ、お前。」
 一瞬で頭に血が上ったエンベレーナは、目の前のそれをひったくって、ぶーっとはなをかんでやった。そんな事、故国でも一度だってしたことがないのに。
 だってエンベレーナは天使の様に愛らしい、成長したら絶世の美女確定、と皆がほめそやすタチアナ国の花。大人の顔色だって上手に読んで見せるし、勉学だって国の博士たちに褒められまくり、美しさと聡明さと気品高さを兼ね備えた王女の中の王女として生きて来たのだ。
 まだ八年だけど。
ソルヴィンセスはエンベレーナのやり様に一瞬目をみはったけれど、にっこりと、それはそれは綺麗に笑ってみせた。しなやかな銀色の髪、水色の涼やかな瞳、繊細で甘い造作は絵画から飛び出して来たかの様。王女と言う立場上、美形慣れしているエンベレーナでも見た事のない程、その容貌は整っている。けれど、自分の抜きんでた容姿がどれだけの効果をもたらすか知っているに違いないその完璧な笑顔に、相当な腹黒さを感じる。
「ニルギス国新王の第二王子、ソルヴィンセスです。どうぞお見知りおきを。タチアナの花、エンベレーナ姫。」
 その優雅な礼は、まるで教本の様な身ごなしだった。
 この国の第二王子……第二王子?
 さーっとエンベレーナの顏から血の気が引いた。
 エンベレーナはニルギス王の戴冠式に招かれた父母に同行して、兄と共にこの国にやって来ている。もちろんニルギス新王の子供達とも友好関係を築いておくための機会として。
 なのになのに。泣いてぐちゃぐちゃの顏を見られたばかりか、お前呼ばわりし、差し出されたハンカチーフで嫌がらせの様に(事実そうなのだけれど)盛大にはなをかんでしまった。
 エンベレーナ達は今日到着したばかり。気さくな新王夫妻は父母を直ぐに訪ねてくれていたけれど、王子達との顔合わせは今夜の晩餐会での予定だったから、顏など知らなかったのだ。王宮のこの奥庭に居る、身なりの良い少年となれば分かりそうなものだったが、何せエンベレーナは初めての恋と失恋でそれどころではなかったのだ。
「エ、エンベレーナですわ。ソルヴィンセス王子。失礼いたしました。どうぞこれから仲良くしてくださいませ。」
 言い切った自分を褒めてやりたい。
 さすがはタチアナの花。超混乱の中、速攻立て直しての正式礼。見事だわ。
「もちろんです。どうぞソルヴィンセスとお呼び下さい。」
「私もエンベレーナと。」
「ああ、嬉しいなあ。エンベレーナ。どうぞそのハンカチーフをこの出会いの記念にして下さい。」
 ぴし!
 眉間にしわが寄るのをエンベレーナは必死でこらえた。
 これが、エンベレーナとソルヴィンセスの間で、(一方的に)ゴングが鳴り響いた瞬間だった。



「ようこそエンベレーナ。久し振りだね。」
 十年前と変わらない…いや、完璧過ぎて油断がならない域の笑顔になったソルヴィンセスが、目の前で見事に微笑んでいた。エンベレーナも磨き上げた極上の微笑みで応える。
「あなたもお変わりない様で、何よりですわ。」
「副大使としてニルギスに来てくれるなんて嬉しいよ。望みの事はなんでも言ってくれ。何と言っても私は自由がきくし、君の希望を他の誰より叶えられると思うよ。」
 世の女性全てを虜にするだろう、この魅力的な笑顔に騙されてはならない。エンベレーナは、あのハンカチーフ事件を忘れていない。
「まあ、有難うございます。では早速」
 にーっこりと微笑み返し、エンベレーナは息を整えて切り出した。
「うん。何かな?」
「カイル様に引き合わせて頂きたいのですわ。」
 挑むようなエンベレーナの眼差しの前で、ソルヴィンセスは目をしばたたいた。
「……それは随分直球だね。」
「婉曲に言っても仕方ありませんでしょ。」
 つん、と顎を反らして見せるエンベレーナに、ソルヴィンセスはくすりと笑って見せた。
「ほんとに君は……」
 変わらないなあ、と呟く姿に、そっちこそ、と言ってやりたい。
 どうにもソルヴィンセスの前では『気品ある穏やかな王女』を取り繕えない、と言うか、もう本性はバレてしまっているのだから取り繕っても仕方がない。そしてそれはお互い様だ。と、エンベレーナは思っている。
 ソルヴィンセスだって、銀細工の騎士様、なんて繊細な美称で呼ばれているけれど、その実油断のならない一筋縄ではいかない性格なのを、エンベレーナは良~く知っているのだ。
「分かったよ。姫君のお望みのままに。」
 だから、そう言ったソルヴィンセスの笑顔が温かく見えたなんて、気のせいに違いないのだ。



 レンダー公爵子息カイル。ソルヴィンセスの親友にして、ニルギスの柱の一つであるレンダー家次期当主。十年前の、エンベレーナの初恋の相手であり、大失恋の相手。
 ニルギスに副大使と言う名目でやって来た目的の殆どは、彼に会うためと言っても過言ではない。
 一目でエンベレーナの心に焼き付いたあの微笑み。エンベレーナはどうしてももう一度、彼に会ってみたかった。



 ソルヴィンセスが整えてくれたのは、王族の私的な空間である王宮の奥庭だった。ここは国王一家がごくごく親しい友人を招いて語り合うのにも使われる場所で、カイルが個人的に訪れるのも、エンベレーナが招かれるのも不思議ではない。十年前、エンベレーナが大泣きしていた場所でもある。
 気遣いなのか嫌がらせなのか。
 エンベレーナはこっそり心の中でソルヴィンセスの油断ならない笑顔にべーっと舌を出しておいた。
「大変お久しぶりです。エンベレーナ様。」
 ゆったりと落ち着いた足取りで現れたカイルは、穏やかな微笑みを湛えていた。ソルヴィンセスもそうだが、彼ももう二十三歳、すっかりと大人の姿になっていた。
 カイルはソルヴィンセスとはまた違った美貌の持ち主だ。短く切り揃えられた、さらりとした黒髪に縁どられた深い青の瞳が印象深い、理知的に端正な容貌。彼の落ち着いた空気感は、貴族的でありながらも親しみ深く、大変好ましい。
 ソルヴィンセスとは一見正反対にも見えるが、華やかでありながら飄々とした雰囲気を持つソルヴィンセスと並ぶ姿を想像すると、不思議なほど違和を感じない。
 親友というのも、何だか納得してしまうのだ。きっとソルヴィンセスのお守の役目もあるに違いない。
「わざわざお運び下さって感謝致しますわ。カイル様。」
 ティーセットが揃えられたガーデンテーブルに着席を勧めながら、エンベレーナはカイルの背後の人影を観とめる。ソルヴィンセスが近くも遠くもない距離で、庭園をゆったりと、さらさらとした金色の長い髪の少女とそぞろ歩きしているのだ。エンベレーナの視線に気づいたのか、あちらから軽く手を挙げて片目を瞑って微笑んで来るのも憎らしい。
 ただ歩いているだけなのに、なんであんなにさまになるのかしら。
 そりゃあここは彼の『家』だけど、この美しい庭園が似合いすぎではないだろうか。
 全く、一幅の絵の様、とは彼の為にある言葉ね。
「エンベレーナ様?」
「いえ。本当にお久しぶりですわね。」
 カイルの声に、きゅっと眉根が寄りそうになってしまっていたのを慌ててほどき、笑顔を向ける。それへ
「ソルヴィンセスが気になりますか?」
 とても楽しそうに微笑まれて、絶句してしまった。
「まあ、そんな。」
「ああ、済みません。彼もあれで気を遣っているのですよ。どうか気を悪くしないでやって下さい。」
 成程。ソルヴィンセスの親友=お守役、確定だ。
「ええ。もちろんですわ。」
 『タチアナの花』の笑顔を取り戻して微笑む。
 温かい紅茶がカップに注がれるのを待って、カイルが穏やかに口を開いた。
「私にお話しがあると伺いましたが。」
「ええ。」
 少しの沈黙の後、エンベレーナはすう、と息を整えてカイルをまっすぐに見る。彼は変わらず穏やかな微笑みを浮かべたままだ。
「不躾な質問であるとは承知しているのですが。」
「はい。」
「何故ローゼリット様を選ばれたのか、伺いたいのです。」
 カイルは少し目を瞠って、こちらを見た。



 カイルと初めて出会ったのは十年前、この王宮の奥庭だった。ニルギス新王の戴冠式に招かれたエンベレーナ達は、客人用の一角に案内され、ニルギス新王一家との晩餐までの時間を寛いでいた。
 温暖なニルギスの風土か、奥庭は美しい花で溢れ、甘い香りが風に乗って運ばれてくる。花々と一つの風景になる様にだろう配されている白い四阿あずまやも何とも印象的で、エンベレーナは一人で散策し始めていた。
 あまり遠くへ行ってはいけないよ、と微笑む両親と兄に手を振って。
 あちこち巡り巡って、その時に見つけてしまったのだ。奥庭の…王族の私室の一角で戯れる少年と幼い少女を。

 それは夢の様な光景だった。小さな…恐らくエンベレーナより少し幼い、六・七位歳の愛らしい少女が、下生えの上に座って真ん丸な笑顔で花冠を編んでいた。
 新しい花を足す度に、傍らに座る十二・三歳位の少年に笑顔を向けながら編み進めて行く。少年は自分も花冠を編みながら、優しい笑顔で時々少女の長い金色の髪を撫でていた。
 出来上がった花冠を、少年が少女の頭の上にかぶせてやると、少女がぱあ、と微笑んだ。少女は自分の編み上げた花冠を少年の頭にかぶせようと背伸びをし、少年は少女が被せやすい様に少し頭を下げてやる。
 白い花で編まれた花冠は、少年の整った顔立ちと黒髪にとても良く似合っていた。
 こぼれんばかりの笑顔で、きゅう、と少女と抱きしめ合う腕。頬にキスをする姿。そこだけが別世界の様に見えた。
 兄妹だろうか。
 エンベレーナの胸が、とくりと鳴った。
 なんて笑顔だろう。少女を大切そうに抱きしめる仕草は、彼の素直な愛情深さを感じさせて、エンベレーナはただただ見入ってしまっていた。
 あの溢れる様なまなざしで、わたくしも見て欲しい。
 エンベレーナが初めて感じた、強烈な欲求だった。
 途端にかあ、と頬に血が上る。
 逃げ出したくて、でも足が動かなくて。
 立ち尽くすエンベレーナに、奥庭の衛士えじだろう青年が膝を折り、目線を合わせて優しく声を掛けてきた。
「姫様、こちらからはニルギス王家の私的な奥庭となっております。」
「あ、あ……そう……ごめんなさい…。」
 こくりと頷き、けれどもそわそわと奥庭と自分の間で視線を彷徨わせるエンベレーナに気付いて、衛士は破顔した。
「ああ、レンダー公爵家のカイル様とユアン伯爵家のローゼリット様ですね。お二人はお小さい時からの婚約者なんですよ。」
「え………。」
 衛士は気さくな性格なのか、ぽんぽんと話してくれる。
「お家同士で幼い頃に婚約を結ばれるのは珍しく有りませんが、あの様にいつも仲睦まじくいらっしゃるので、ニルギスでは有名ですよ。」
 婚約者。
「そ、そう…なのね。」
 エンベレーナは後も見ずにくるりと身を翻して走り出した。
 婚約者。婚約者。
 屈託なく交わす笑顔。愛おしそうに抱きしめる腕。
 あんな風に誰かを見つめる姿を、まなざしを、エンベレーナは今まで見た事が無かった。見ているこちらの胸が温かさで一杯になる様な。
 息が切れて、苦しくなって、植込みの奥にしゃがみ込んだ。
 カイルのあの笑顔は、あの少女のものなのだ。
「…っ……っ……」
 どうしてかぼろぼろ涙が溢れて、ああ、自分は今失恋したんだな、と他人事の様に思ったのだった。



 「分かって頂けるかは分からないのですが。」
 カイルはそう前置いて、微笑んだ。
「私達の母親は、結婚してからもお互いの家を頻繁に行き来する程の大親友で、私はローゼリットが生まれた時から一緒に過ごして来ました。」


 カイルにとってローゼリットは、生まれた時から可愛くてならない存在だった。
 ミルクやおしめの世話までしたがるカイルに、両家の大人達は驚きながらも微笑ましく見守っていたものだ。ローゼリットもカイルの姿が有るといつもご機嫌だった。
 貴族の子弟の義務として王立学院に入学しなければならなくなった十歳の時、一緒に居られる時間が余りにも少なくなるのが嫌で、入学したくないとカイルは初めて我儘を言った。
 どうしても嫌だと言い張るカイルの様子に、まだ四歳だったローゼリットも泣き出してカイルから離れなくなってしまい、大人達はやれやれと苦笑しながら提案したのだ。
 婚約してはどうか、と。
 一緒に居られる時間は今までと同じにはならないが、結婚するという約束は二人が一緒にいる事を社会的に認めてくれるようになる。大人になって正式な結婚をするまでに、二人が幸せでいる為の知識や力を蓄えに学院へ通いなさい、と。
 それは大人達にすれば、子供をなだめる方便でもあり、叶えば喜ばしい夢でもあった。

 二人はまだまだ子供で、ローゼリットに至ってはそもそも結婚の意味すら良く分かっていないだろう年齢だ。婚約はいつでも解消出来るよう、口約束に留められていたのだが、二人は幾つになっても時間があれば一緒に過ごしていたし、その仲睦まじさは誰の目から見ても明らかで。結局一度も解消の話が上る事はなかったのだった。


「何故、と訊かれたら、ローゼリットだから、としか言いようがないのです。」
 彼女よりも美しいひとも、彼女より聡明なひともいるだろう。けれどそれに何の意味も見い出せない。
 ただ一つ、ローゼリットである、と言うそれだけがカイルの理由なのだから。
 ゆったりと微笑むカイルの目は落ち着いていて、彼が本心からそう思っているのだろう事が伺えた。
「私にとってローゼリットの様に愛おしいと思える存在は、きっとこれからもないでしょう。」
 そう言って奥庭の回廊を見やるカイルの微笑みは、十年前と変わらない。愛おしさに満ちた穏やかなそのまなざしの先で、結婚したばかりの彼の妻ローゼリットが、ソルヴィンセスとそぞろ歩きをしながら楽し気に語り合っているのが見える。
「どんな風に出会っても、どんな時間を過ごしても、私は彼女を選んだでしょう。」
「どんな風に、出会っても……。」
呟きに等しいエンベレーナの声に、カイルは静かに頷いた。
「出会い方など、大した事ではありませんよ。それこそ、出会ってしまえばもう仕方がありません。私は彼女と共にある事が何より満ち足りていて自然だと、感じてしまったのですから。」
「自然……。」
 どんな風に出会っても。どんな時間を過ごしても。
 それはつまり、どんな理由も理由ではない、という事か。
 十年前のあの時、カイル少年はローゼリットを…彼の幸せを見つけてしまっていた。ただまっすぐに抱きしめていた。そういう事なのだろう。
 自分はそのまなざしに『幼い恋』をしたのだと、今ならそれが良く分かる。
 奥庭の先に視線をやりながら、エンベレーナの頬には知らず、微笑みが浮かんでいた。
「お役に立ちましたでしょうか?」
 いつの間にか、ぼんやりとしてしまっていたらしい。はっ、とカイルの声に目が覚める心地がして、エンベレーナは慌てて視線を合わせた。
「はい。胸のつかえが取れたような心地ですわ。」
 鮮やかに微笑む。
 不思議に今、気持ちが凪いでいた。
 それを見計らった様に―その実そうなのだろうけれど―ソルヴィンセスがローゼリットを伴ってこちらへやって来た。
 カイルが二人を迎える。
「終わったのかい?」
「ああ。丁度終わった所だ。」
「エンベレーナ。カイルの奥方、ローゼリットだよ。」
「初めてお目に掛かります、エンベレーナ様。ローゼリットです。」
 優雅にお辞儀をするそのひとは、十年前の花冠を編んでいた少女の面影が残る、愛らしい人だった。けれどもさすがと言うべきか、深い瞳に聡明さが見て取れる。
 成程、ひねくれたソルヴィンセスが妹の様に可愛がる訳だ。
「ローゼリット、とお呼びして良いかしら。わたくしもどうぞエンベレーナとお呼び下さいね。」
 心から、微笑んだ。



 「得る物は有ったかい?」
 睦まじく寄り添うカイルとローゼリットを見送って、ソルヴィンセスは穏やかな笑顔を向けて来た。
「まあ、そうですわね。席を設けて下さって感謝しますわ。」
 つーん、と明後日の方を向いて唇を尖らせるエンベレーナに、ソルヴィンセスはくすくすと笑って見せる。
「随分他人行儀だなあ。寂しいよ?」
「随分簡単に引き合わせて下さいましたのね。」
 ソルヴィンセスがこんなに簡単に、エンベレーナの希望を叶えてくれるとは、正直意外だった。彼には十年前の事はすっかりバレているし、少しは交渉が必要かもしれないと思っていたのだけれど。
「うん。だって君の望みだからね。」
 優しい声に、思わず振り返る。
 銀色の髪、水色の瞳。銀細工の様、と称される甘い端正な顔立ちに浮かぶ微笑み。今までに何度も見た、悪戯っぽい笑顔ではない。それはとても温かくて、優しい色を浮かべていた。
 エンベレーナはぱちぱちと目をまたたかせて、そして、ふい、とそのまま逸らした。
「どうして、わたくしとの婚約を了承なさったの?」
 まだ公布されていないが、近々二人の婚約は正式の事となる。今回の副大使としての着任だって、ニルギスに出来るだけ馴染んでおくためのものでもあるのだ。
 けれど。
 本当は。本当に聞きたかったのは。
「君が好きだから。」
 あまりにあっさりと落とされた言葉に、カッと頭に血が上ってしまう。ギリ、と睨みつけてやったエンベレーナの目の前で、ソルヴィンセスは変わらずに微笑んでいた。
 その、色に、思わず息を飲む。
「ねえ、エンベレーナ。私はね、十年前、ここで君に一目惚れをしたんだよ。」
「…………は」
 あっけに取られる、とはこういう状態を言うのだろう。
 一目惚れ…。一目惚れ?一目惚れって、あの時に?いやいやいや。何を言っているのだこの男は。涙でぐちゃぐちゃのエンベレーナを見るなり吹き出して、あろうことか戦線布告(エンベレーナにとっては)までしておいて。何より、あの挑戦的な態度のエンベレーナに、一目惚れ?
 ぐるぐるしているエンべレーナの前で、わざとらしくソルヴィンセスは溜息を付いて見せた。
「何度も手紙に書いただろう?愛を込めて、って。」
「あんなの決まり文句じゃない!」
 十年前から時々…いや結構頻繁に届くソルヴィンセスからの手紙は、ニルギスの季節の移り変わりや喜ばしい事やタチアナへの心配りまで幅広く、けれどたわいない事ばかりが書かれてあった。軽妙なその文面は彼の好奇心や知識の広さ、洞察力の高さを伺わせて、返事を書く時も丁々発止とは言わないが、妙な対抗心を燃やしてしまう。正直言うとかなり楽しいやり取りだ。
 けれど、その手紙の末尾に添えるあの決まり文句が本気だなんて、誰が思うのか。
 思わず言い返してしまったエンベレーナに、ソルヴィンセスはそうそう、その調子、なんて口にする。
「うん、調子が戻って来たね。それでこそ私のエンベレーナだよ。」
「誰があなたのですって?」
 顔が真っ赤になっているのも構わずに、食ってかかる。
「その炎の様な髪の色そのままのまっすぐな心。」
 ソルヴィンセスは笑みを深くする。そう、まるで蕩ける様に。
「あの時からね、思っていたんだよ。君だ、ってね。」
 だから私のとっておきのハンカチーフを使い物にならない様にされたって、気にならなかったよ。なんて。
「…………」
 君は違うの?
 なんて。そんな優しい目で聞かれても。開いた口が塞がらない…いや、こういう時はどう表現するんだっけ。
 エンベレーナの素晴らしく出来が良いはずの頭が全く役に立たない。
「ねえ、エンベレーナ。私達は王子と王女で、この結婚は政略的な側面もあるね。直接会ったのだって、数える位だ。でもそんなのはどうでも良い事だと思わないかい?」
 カイルと全く違う顔で、けれども同じようなまなざしで同じ事を言う。
「私は君が傍に居てくれたら、君が君のままで居てくれたら、とても幸せで居られると思うんだけど。」
 そうだ。エンベレーナはソルヴィンセスの前ではいつも取り繕えない。取り繕おうという気すら起こらなかった。何度もやって来る手紙だって、最初は訝しく思いながら、いつの間にか本当に楽しみになっていて。
 生き生きとした情景が伝わって来る様な手紙に、今回はどんな事が書いてあるのかと、どんな返事を書いてやろうかと。
 そんな風に、いつだってエンベレーナをエンベレーナのままに居させてくれるのは。
 そして今、エンベレーナがずっと欲しかった物を差し出してくれるのは。
「……ばか。」
 胸に飛び込んで来たエンベレーナを優しく抱き留める腕は意外にも逞しくて。
 髪を撫でる風が優しく吹き過ぎて、花の香りを運んで来てくれる。
 十年前と変わらない。
 まるであの時からここに居た様だ。
「どうぞ。エンベレーナ。」
 じわりと滲んだ涙に知らぬ振りをして、びっくりする程繊細な刺繍が施されたハンカチーフが差し出される。
 エンベレーナは、すん、と鼻を鳴らしてそれを受け取り、「ちーん」、と声に出して、笑ったのだった。




<FIN>

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