美醜を見極める(野暮だよこの文章はマジで)
「目を凝らして見える」それくらいがいいよね。何事も。
完全に近眼で眼鏡しなきゃならんのかー…
となったのは8歳くらいだったかな。それまでもずっと大して見えてなかったんだけど、そんなもんだと思っていた歳だろうね。
近眼は遺伝だっていうけど、そりゃそうなんだろうけど。
ある意味、見たくないもんを見ないようにしなきゃならん防衛反応のようなもんかもしれないと、最近よく考えるよね。
要するに自我が芽生えたあたりの3〜4歳?あたりかな。親が常態的に馬鹿だと近眼になるんじゃないかね。「親が馬鹿」の定義ってしずらいけど、だいたい金ないよねその時。そんでアル中、酒癖悪い、夫婦喧嘩、親がよくキレてる、虐待。
見たくねえよそんなもん。眼悪くなるよそりゃ。
因果関係どうなの?って言えるレベルの話かもしれないけど、俺はあると思ってるよね。
まあ、俺の場合、当事者にとって、全て過去となった今だからこんな事書けるね。
だから、近眼は遺伝するんじゃねえのかね?
見たいものが元々空想にいきがちな人は、周りで何起こってても近眼にならないとか。
まあ、違うか。ここまで書いといて違うかもな、まいいや。
でも、俺は小さい時、眼が悪かったから、何かすごく気になるものがある時、目をよく凝らすしかないんだけど。
そうやってようやく見えた物事が、美しく、醜いと思うね。
美醜。
どちらも価値があるね。
間のものも価値があるだろうけど、特別ではないか。間の話と相反するけどね。
だけど、人に何かを伝えたい時、半端じゃダメだ、俺はこうやって自己セラピーながらも、折角電波に載せるんだ、美醜に拘りたいところだね、心内が随分と間がないもんだから、間のあるカッコよさには辿り着けないのかもしれないけど、清く濁っている心ではあるから、自然にやれば美醜を晒せるだろうな。それが良いかどうかは別として、後悔が少ないし、全て過去にしてしまえるよな。
だから、目を凝らして見える物が、やっぱり俺の場合、好きだし、面白いな。滅多にないけども。
「目を凝らして見える」くらいがいいのかもちょっとわかんなくなってきたな…
でも、何でもかんでも、くっきりぱっきり、じゃ面白くないのは確かだね。
その逆もね。
なんでもアリだね、ごめん、答えじゃないな。
ああ、そうだ、最近はくっきりぱっきりが多かったんだ、ただそれだけだ。あと単に好みだねそれが。
目を凝らしてもよく見えないね、この文章は。
最後はどっちでも。