雨のパレード Tokyo を聴いて
見知らぬ人の渦に流されて
脈絡のない時を過ごす
どうしようもなくなるほどの巨大な虚無感
輝ける街で
すりきれる今日を
受け入れることに慣れてしまった
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今日の東京には見知らぬ人の渦も無く、輝ける街も無い。虚無感も自分を擦り切る都市本体もどこかへ行ってしまった。この期間において、脈絡のある生き方は都市と相対するものではなく、自発させるもの。
どんなに夜が遅くとも、日が昇るにつれて目は覚える
どんな健康法も効かない下半身の冷えは、照る太陽の熱さで次第に改善する
歩けば気分は高揚する
どんな料理も野菜と肉を蒸し、焼き、煮込み、調味料を加えれば完成する
人間の根源的な知恵、それは暮らしを丁寧に営むこと。脈絡のある生き方に繋がっていくことでもあるはずだ。
自粛期間中に見たドラマの中に、1964年の東京オリンピック前夜に出稼ぎ労働で「蒸発」していった人々の描かれるシーンがあった。きっと、いや絶対、国立代々木競技場が吊り屋根構造だとか、モダニズムの鉄筋コンクリートに表現としての縄文を成功させただとか、世界が目にする敗戦から立ち上がった日本の姿の象徴は、彼らにとっては本当にどうでもよかった。都市の異様なエネルギーに、ただただ痩せ細り、浮遊することしかできなかっただろう。
高校生のとき、虚無感という感覚を得た。都市に全身を任せているその感覚は、中毒性の伴う快楽に近かったかもしれない。それは人間の根源的な知恵を失った状態と同義で、私にとってその快楽は都市に住まなければ獲得し得なかったものであり、まさに現代人特有の「蒸発」だったと思う。
そういう意味では、2020年3月までのTokyoは、上京してきた人も、東京で生まれ東京で育った人も、蒸発しまくりの湿気むんむんの都市であったのではないだろうか。
雨のパレードの『Tokyo』が上京してきた人々に限らず、私のような東京で生まれ育った人間の心に響くのは、きっとそれが理由だ。
窓際に腰を下ろし、ベランダの花壇を眺めながら春の新鮮な空気を吸う。
思い込みだろうか、今年の春の空気は例年以上にさらさらしている。
2020.04.21
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