人生無理バーの出禁騒動が生きづらい界隈に突きつけたもの
得たイさんの入り浸る発達障害界隈と関係が深いバーで、事件が起きてしまったのだ。具体的には女性に対する性被害なのだが、これを重く見た主催がなんと「発達障害の男性出禁」というとんでもない強硬策に出たのだ。
発達男性出禁という強硬策
人生無理バーはこの手の問題には以前から困っていたらしく、今回ついにブチ切れてしまったようなのだ。
しかし、被害に遭われた方はこの出禁措置を良く思ってないようなのだ。やる奴はやるしやらない人はやらない、そこには定型も発達も男も女も関係ないのだ。
アパホテルのゲイ出禁というのは、コロナの影響で割引キャンペーンやったらハッテン場と化してしまったために経営側がゲイ出禁措置を取った案件なのだ。あれもかなり物議を醸したのだ。
その後ゲイ達がどうしたかは知らないのだ。ネットでは大きく伝えられてないのだ。おそらくアパホテルの中では「なかったこと」にされて黙殺されているに違いないのだ。
このままいくと、発達障害の男性が迫害された事実も「なかったこと」にされる恐れがありそうなのだ。
強硬策を引き起こしたのは何か
色恋沙汰でコミュニティが崩壊する案件は掃いて捨てるほどあるから、この案件で経緯を究明する意味はないのだ。ただ、この案件で特徴的なのは「人生無理バー」という名前にあるのだ。
人生無理バーは名前からして弱者の主催するイベントであることは想像に難くないのだ。そこには「弱者と弱者の互助コミュニティ」というなんとも脆弱な要素があるのだ。生きづらい界隈のイベントバーはこれが常なのだ。焦点はここにあるのだ。
色恋沙汰によるコミュニティ崩壊の典型例なのだ。しかしその原因を、この人は「女であること」と前置いているのだ。つまりこれは、女性として生まれたこと自体がコミュニティ崩壊の病理であると結論づけられているのだ。この人は女性であることは病気である、と言ってるのだ。
勿論そんなことはないのだ。この手のコミュニティでは、弱者は男女で求めるものが違うからアンバランスだっただけに過ぎないのだ。男性が体目的なら、女性は金目的なのだ。信じようとするものが違うのだ。色恋沙汰によるコミュニティ崩壊は、弱者男女が信用をコミットする対象のバランスが崩れている(つまり、男が求める女性の体はそこにあるのに、女が求める金(参加費等に対する見返りとしての価値)は女性側の優遇がない)ので問題化してしまうのだ。
これに対する答えのひとつがハプニングバーなのだ。女性客が体を求められるかわりに、男性客には入店料を圧倒的に不利にして女性客に金銭面の優遇を図ってコミュニティのバランスを取っているのだ。
画像は例によって「セックス依存症になりました」からの引用なのだ。自己肯定感の低い男女の互助コミュニティを成立させるために、この画像の言う真実を実際に運用しているのがハプバーなのだ。そこでは基本的に色恋沙汰のイザコザは起きないのだ。起きるとしたら、女性そのものの価値や入店料の額の理想と現実の差など、女体と金に求める価値観のバランスが崩れる場合なのだ。
ただしこれは、性行為が予め想定されているから成立する方法なのだ。一般的なコミュニティでやったらコテンパンに叩かれるし法に触れるのだ。
だから強硬策を実施しなければならないのだ。一般的なコミュニティでは体と金を真実にすることは人道に反するから、それを真実にし得る対象(今回の件では発達障害の男性)を出禁にして、臭いものに蓋をする策を取ることはやむを得ないと言えるのだ。
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この強硬策を取るに至ったのは「女と金の真実」が原因なのだ。この人も男性の求めるものが体だという真実を据えた上で金を真実にしていたから、今回の件で特定の属性への出禁策という愚策をしてしまったのだ。
弱者同士のコミュニティを救うもの
今回の件に言及したreiさんの記事にはこうあるのだ。
それでは弱者同士の互助は不可能なのか?というと、私は必ずしもそうとは思わない。何故なら、弱者同士の互助が上手く回るのはどうようなコミュニティの形か?については、既に人類の歴史の中で答えが出ているからだ。
それは「宗教」と「闘争」の2つである。
宗教は文字通りの信仰心で「良い事をすれば長期的(死後含む)には超自然的存在が必ず応報してくれる」という合理性を信者間で共用しており、謂わば「思い遣り分かち合う事」という行動規範がインストールされている。
闘争に関しては「共通の敵」及び「共通の目標」がいる事で結束が強まる他、「弱者の加害性が内には向かいにくい」という側面がある。良い悪いは別にして、弱者同士の攻撃や排他がコミュニティ内には生じにくく、また「敵を倒す事で愛が得られる」のでリソースの要求は外へと向かう。
この「宗教」と「闘争」に当たるのが自助グループなのだ。アルコール依存症の自助グループで言うなら、前者の「宗教」がAA(アルコホーリクス・アノニマス)で、後者の「闘争」が断酒会なのだ。
アルコホーリクス・アノニマスを起源とした所謂12ステップ系の自助グループは、アメリカ発祥であるだけにキリスト教のエッセンスが含まれているのだけど、実際は宗教ではなく「自分なりに理解した神」への信仰により「偉大なる力(ハイヤーパワー)」に助けを求めて回復する、本来的な意味でのスピリチュアルなのだ。その歴史と伝統の中に「分かち合う」ことが組み込まれているので、自助グループの仲間たちは共感により回復することができるのだ。伝統にはセックス観にも言及されているので、男女間の規範も整っているのだ。
これに対して「闘争」で統制を取るのが断酒会なのだ。
弱者同士の互助の場は、社会的なルールや規範に馴染めないが故に「自由」を標榜しやすいが、自由な場においては自由だからこそ「場の離脱」や「他害性のある言動」を制限出来ず、弱者にとっては厳しい場になってしまう。その為、弱者の互助の場に必要なのは自由とは正反対の「強い規範」「明確な目標」が求められるケースが少なくない。例えば断酒会なんかは「酒を飲まず正直に苦しみを吐露し他者のそれを否定しない」という強い規範と「断酒する」という明確な目標があるが故に、比較的上手く回っている弱者的な人間の互助の場だと言えるだろう。
断酒会は、強い規範により共通の目標を目指す体制を敷くため、無名であることが必要なAAとは対称的に実名必須の会員制だと聞くのだ。そして酒をやめる為なら生活に干渉することもあるらしいのだ。しかしそこに仲間意識が芽生えるとすれば、それはプラスになる人もいるはずなのだ。
ただ、12ステップ系の自助グループで回復を目指す得たイさんとしては、断酒会のような規範によるコミュニティの統制にはいつか限界が来ると思っているのだ。そこでは人が人を支配する構図から脱却できていないから、闘争による支配はいずれ無に帰すのだ。
依存は分散するのではなく自覚する
この段に関しては蛇足なのだが、人生無理バー炎上のどさくさに紛れて得たイさんを誹謗中傷するツイートを見かけたので、牽制の意味でその主のツイートと記事を引用しておくのだ。
●●さんは●●●●●●の活動を通して、〇すとネットで発言されたことありますのだ。男だとこうなるのだ。
このツイートはまさにセックス依存症が発覚して自助グループに繋がったばかりでまだ何も回復してない状態の得たイさんの発言のことだったのだが、当時は緊急事態宣言中でミーティングがなく、やむなくアライさん界隈に分かち合いの場所を求めてしまったのだ。発言場所を間違えた得たイさんが悪いのだが、それをあたかも〇〇予告されたかのように捏造するのをやめろなのだ。これは立派な名誉毀損なのだ。
ちなみにこの件を弁護士に相談した際、彼がもし法的手段を取ったとしても警察や弁護士は100%取り入ってくれないだろうという回答を得たのだ。
その時からある程度回復中の得たイさんが依存症者の立場として、今回の件につき依存のことを言及しておく必要性を感じたこと、そして棚卸しの一環として、蛇足ながら付け加えるのだ。
さておき、彼の記事にいわくには、
なにかの依存症は、依存先を増やすことで何にも依存してないような状態にもって行くことで治す、というようなツイートがよく回ってくるのだ。
この人生無理バーで無理になったケースのような「場と主催者」への強い依存も同じだと思うのだ。
それを分散させよう、という話なのだな。
自助グループで治療しているガチの依存症者である得たイさんに言わせれば、それは勝者の理論なのだ。依存は本来の意味であるdependentと中毒を意味するaddictionを明確に区別しなければいけないのだ。自己肯定感の低い人の依存はほぼ後者なので、生きづらい人が依存先を分散させるとクロスアディクション(多重嗜癖=依存症の乗算による悪化)になるのだ。害しかないのだ。
では、自己肯定感の低い人にdependentはできないのかというと、そんなことはないのだ。人間は一人では生きていけないのだ。だから、既にいろんなものにdependentしていることに気づくことが大切なのだ。
dependentとaddictionを区別すると、健全な依存であるdependentの対象が、電気やガスなどのエネルギーだったり、携帯電話や交通機関などのインフラだったりすることに気がつくのだ。
アルコホーリクス・アノニマスにはこうあるのだ。
今日の実用本位の現代人は、事実と結果にうるさい。とはいえ、今世紀は事実の裏付けがあればあらゆる理論を受け入れている。たとえば電気の理論である。誰もが全然疑わないで、電気のことを信じている。なぜこんなに簡単に受け入れられるのか。それは、理屈にあった仮説を信じなければ、自分たちが見、感じ、使いこないしている電気のことを説明できないからである。
現代では誰もが、証拠さえあれば仮説を信じる。見てわかるだけのものは、たとえそれが完ぺきなものでも取り上げられない。目に見えるものは、証拠としては一番弱いということを科学は示している。人間が物質界を研究するにつれ、外見は内側にある真実とはまったく違っていることが次々と明らかにされている。例をあげよう。
たとえばどこにでもある鉄骨の大きな梁。それを作っているのは、ものすごい速度でお互いのまわりを回転している電子の塊である。こうしたちっぽけな物体は正確な法則にしたがって動いている。このような法則は物質界のすべてにあてはまる。科学はそう教えている。私たちにはそれを疑う理由がない。それなのに、私たちは自分が目にする物質や生命の大もとに、「力に満ちて、自分たちを導く、すべてを作り上げた知性的存在」があるという完全に論理的な推測にあうと、すぐさま、ひねくれた性質が現れ、そんなことはないと自分に言い聞かせようとする。この宇宙を説明するのに神など要らないと信じている自分がある。だからやたらにむずかしい本を読んで、口先の議論に一所懸命になる。けれど、神が要らないという主張が正しいのであれば、生命は何もないところから生まれ、なんの意味も持たず、行き先もないことになる。
自分たちが生活のために依存(dependent)しているものは、昔は与太話とされていたものが科学の進歩により証拠として具現化されたものばかりなのだ。その代表的なもののひとつが電気なのだ。つまり人間は、科学が発展する以前には現代で言う宗教やスピリチュアルと同類項とされていた仮説を、なくてはならないものとして依存しているのだ。
「今」の与太話が「未来」で誰もが信じていることについては、ドラえもんで克明に表現されているのだ。
ドラえもんとのび太くんが先祖の話を聞くため、その先祖の「のびろべえ」をタイムマシンで現代に連れてきてしまい、現代文明を初めて見たのびろべえが混乱したため彼を元の時代に帰したところ、彼は未知の世界(現代)で見た文明をみんなに話したけど誰も信じてくれなかった話なのだ。のび太くんが事前に調べた先祖の「ホラのび」というあだ名は実はのび太くんのせいでつけられたというオチなのだ。
ホラのびと聴衆の構図は、現代で言うと信仰のある人と無神論者・不可知論者の構図なのだ。しかし現代人は、聴衆(無神論者)の信じないホラのびの与太話であるテレビやビル、自動車などに依存しているのだ。無神論者にとっての与太話は、未来には誰もがそれを信じるようになる、ということなのだ。
私たち不可知論者、無神論者は、自分たちが、絶えず進歩を続ける神の創造物の先鋒を務める、神の知恵のしもべだとは考えなかった。私たちは人間の英智こそが完ぺきであり、永遠だと信じた。どうもそれはうぬぼれだったようである。
現代人が古代の無神論者にとっての与太話だったものに依存(dependent)していることに気づいた時、「依存先を増やす」という話が、既に依存しているものを忘れてその存在を切り捨てる自惚れた考えだということがわかるのだ。
その依存先であるエネルギーやインフラは、科学が進歩した結果、人間の英智を遥かに超えたものであることが解明されてきているのだ。科学の行き着く先は宗教や神の存在の解明(科学による宗教の教義や神の存在の証明)なのだ。宗教や神を非科学的だと言って信じられない非科学的な態度が、健全な依存(dependent)を遠ざけて依存症(addiction)を引き起こしてしまうのだ。
そして、人間の英智を遥かに超えた偉大なる力(ハイヤーパワー)を信じられない故に、先述のreiさんの記事にあるように価値(ここでは目に見えるもの=体と金の真実)を提供することだけにリソースを割いた結果、事案化に至ってしまったのだ。
依存を自覚するということは、人間の英智を超えた偉大なる力を信じるということなのだ。それができなかった不可知論者どうしのコミュニティが破滅に至るのだ。
発達障害男性出禁は界隈に何を突きつけたか
ようやく結論なのだ。発達障害男性という特定の属性を排除することは、生きづらい界隈のコミュニティ全体の存在を危険に晒すものなのだ。
これは過去の歴史が証明しているのだ。
アルコホーリクス・アノニマスの文献のひとつである「12のステップと12の伝統」には、真面目にプログラムに取り組むが頑なに神を信じない無神論者エドを、AAの宗教的な考え方に従わない異端児としてグループを出禁にした過去があることが書かれているのだ。グループを出禁になったエドは依存が再発してしまったのだ。そして酒を求めるあまり、ついにとあるメンバーの家に忍び込んだことによってプログラムにありつき、事なきを得たのだ。当時の古参メンバーは、エドが出禁のまま行方がわからなくなっていたら彼の人生はどうなっていたかを考えるとゾッとする、という旨のことを口を揃えて言ったそうなのだ。
これ以来、12ステップ系の自助グループには信仰の有無を問わず「"自分なりに"理解した神」へ祈ることが伝統とされているのだ。無神論者でも宗教抜きにして信仰ができるようになったのだ。この伝統は今日に至るまで揺るぎないものになっているのだ。
ところが、生きづらい界隈が繋がるようになったのはSNSの台頭した現代からなので、自助会はまだ歴史が浅いのだ。ゆえに伝統もなく、多くの自助会が手探りで運営していると思うのだ。
そこに、エドの件の「無神論者出禁」同様に、人生無理バーの「発達障害男性出禁」事案が発生したのだ。人生無理な発達障害男性という属性は「人生無理すら無理」という救いのない状態になってしまったのだ。
生きづらい界隈は、発達障害男性の行き着くところを想像できるかどうかが分岐点なのだ。例えばどこかの自助会の出禁者が(自助会や界隈とは一切関係ない動機により)何か凶悪犯罪を起こしたり自殺したりすることが立て続けに起きたら、界隈はそれを他人事のようにスルーするのか?という話なのだ。そしてコミュニティ破滅の道をそのようにして、ある意味ストレートに突っ走っているのがアライさん界隈なのだ。
このまま自助作用が生まれなければ、生きづらい界隈の破滅は避けられないのだ。この現実を自助会や界隈に突きつけたのが、今回の件なのだ。
ただ幸いにも、発達障害男性を歓迎するイベントバーは多数あるのだ。エデン本店では、人生無理バーの発達障害男性出禁を店長権限で無効にしたのだ。界隈には自助作用がちゃんとあったのだ。
発達障害男性に救いはあるのだ。ただし、偉大なる力(ハイヤーパワー)を知らなければまた同じ結果が待っているだけなのだ。これが繰り返されれば、いずれにせよコミュニティは破滅するのだ。
得たイさんはそれを何となく感じ取っていたから、一部の生きづらい界隈から距離を置いているのだ。そして自助グループではっきりとこのことを自覚したのだ。
どうやればコミュニティがうまくいくのか、それを理解する鍵がハイヤーパワーでありAAの12ステップなのだ。あるいは自分なりに理解した神への信仰なのだ。生きづらい界隈は、その現実と向き合う覚悟が必要な時期に差し掛かっていると思うのだ。
コミュニティがうまくいくことを、ハイヤーパワーに祈って終わりにするのだ。