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【MEBIUS WORLD】「外国語」では、「日本語」では出せない感情が表現できる。

【MEBIUS WORLD】
僕は、本と人との出逢いから、メビウスの全てを学んだ。
自分の気持ちが高まる物語(HI-story)、
それを人は歴史と呼ぶ(history)。


◎「外国語」と「日本語」

『外国語では、自分の伝えたい感情を出せない』のではなく、
外国語だからこそ、日本語では出せない感情を表現できる。


母国語によって強力に形成されている思考の経路とその限界を、どこまで切実に我が身において自覚するか。

母国語によって人は規定され、社会は言葉によって成立する。
たえず外部を取りこみ攻撃し提案をしていく動詞中心の英語に対し、日本語とは自分を中心として利害の調整にかまける言葉だ。

日本語によって生きるとは、どのように「偏って」生きることなのか?

片岡義男『日本語の外へ』


あるキッカケで、「英語を使うことは、自分のココロの中の閉じていた感情を表現できる」ということに気づいた!!

これは、目からウロコの発見だった。

昔、アメリカの大学に留学していたことがあるし、海外の版権を扱う仕事もしていたことがあるので、決して、そんなに英語コンプレックスがあるわけではないのに、日本語と比べると、もちろん、英語は全然使えないから、今まで、日本語をゼロとして考えて、英語では表現できない部分ばかりが気になっていた。常に、何となく、マイナスな気分で、しょうがなく、英語を使っていたのだった。

実は、外国語は、自分の今まで抑えていた感情の扉を開いてくれるのだ。

「コトバを話す」とは、自分の身体という楽器を使って音を出すこと。

だから、「外国語を話す」ということは、自分の身体を別の楽器として使うようなものだと、僕は思っている。

例えば、僕の場合、日本語では、なかなか「怒り」という感情を出すことが難しい。

きっと、「怒り」という気持ちを表現することを、小さいときから「NO!! あまり好ましくない」と脳にインプットしているからのような気がする。

だけど、もちろん、「怒り」という感情が、自分の中にないということではないわけで。

感情というものは、きっと、何らかのカタチで昇華させないと、「溜まっていく。滞っていく。澱んでいく。麻痺していく。匂っていく。腐っていく。」たぐいのものだ。
つまり、「生もの」のようなもの。
新鮮なときに味わってこそ、一番価値のあるもの。
(まあ、生ものでなくても、加工することで料理の仕様は確かにありますが。)

英語を使うことで、日本語では封印している「怒り」という感情を、比較的、楽に表現することが出来る。
僕の場合、英語では、結構、怒れるのだ。
つまり、「怒り」という感情を、活きのいいうちに、味わえるということ。

ほとんどの「気持ち」って、結局、コトバとセットになっているものだから、コトバを変えるだけで、結構、気持ちも変わったりする。

僕の場合、英語というツールを使うと、うまく、「怒り」という感情を引き出しやすい。
そう気づいてから、英語で話すのが楽しくなった。

英語が、「怒り」に限らず、日本語では出しにくかった自分の感情を出すための、別のチャンネルのように感じられた。

もしかしたら、自分の性格も感情も、あるパターンによって規定されているだけで、コトバという脳のOSを変換すれば、自分の行動も表現も大きく変わるのかもしれない。

英語を話している自分と、日本語で話している自分は、アプリケーションの違うソフトのように、アウトプットも違ってくる感じがして、自分の隠されていた性格をもっと深く、いろいろと探索できるようになった。



片岡義男の『日本語の外へ』という本には、このようなテーマの話がいろいろ載っている。

「日本語の外へ」片岡義男著


【エッセンシャル出版社・価値創造部】
エッセンシャル出版社の公式部活「価値創造部」。
自分を、人生を、世界を、学び遊びながら探求し、
「次代の物差し」という価値を創造していくプロジェクト集団です。

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