元ガーデン雑誌編集者が、自宅に草の庭をつくりながら、思うこと
わたしは、今、自宅に「草の庭」をつくっている。
昭和の劇作家、寺山修司は、「書を捨てよ町へ出よう」と言ったが、令和の今日、私は、パソコンを閉じて、庭に出る。
茂り過ぎた草を抜く。根が張っていて中々抜けない。地球との綱引きになる。踏ん張る。紅潮する。やっと抜けた。
根元に、もぞもぞダンゴ虫。
わっせわっせと大慌てで逃げ出すミミズ。
ミミズをつつこうと電柱にとまったのは、モズかな?
ひなたぼっこをしていたカナヘビがしゅっと身を隠す。
突いた球がその先で球をはじいて、世界が回る。
草一本抜くだけで、世界に含まれていることを実感する。
大学卒業後、編集プロダクションや出版社で編集者として働いたあと、出身の千葉に戻り、ライターをしている。築50年近い実家をリフォームし、夫と猫四匹と暮らす日々だ。
20代の頃、庭の本を担当していた。元々自然は好きだったが、私の庭を見る網の目はますます細かくなり、一つの石、一本の花の意味を知った。
今日、庭の草とりをしていて、気が付いた。
庭のはじまりは、「道」なんだなと。
山に分け入ると、道ができる。
木を切れば、広場ができる。
人と自然が交わる場所、人と自然を分かつ場所。
自然の中に人がつくった不自然。
融和と破壊の象徴。
それが、原始の庭なんじゃないか。
日本中の庭を巡った日々から、20年が経った。
ふと、鴨長明が川の流れを眺めたように、国木田独歩が武蔵野に心象を投影したように、草の庭を見つめながら、思うことを書いてみたくなった。
待宵草を愛でる会
最近、庭の待宵草がいい感じだ。
夕暮れ時に咲き始めるから、「宵を待つ」という名前がついた草だ。
梅雨の晴れ間の15時。庭仕事を始めると、手の甲に霧吹きで吹き付けたような汗がじっとりと滲む。夢中になっていると、ふと、足元に、ぽっと一輪黄色く咲いているのに気づく。あ、もう夕方だと思う。
気が付くと、庭は青い色に浸っていて、昼間はただの草むらだったのに、私は、待宵草の花畑の中にいる。
フェンス越しに散歩中のおじいさんに声をかけられる。
「これは何の花ですか?」
「待宵草です」
「え?」
「待宵草、草です」
「え?」
「く!さ!」
「へえ~見事なもんだ」
我が家の庭は広くて、ブランコと滑り台とベンチがある公園ほどもある。忙しくて放りっぱなしにしていたら、庭半分が草むらになってしまった。
「庭が草でぼーぼーでさ」と話す私は、「うちの息子、出来が悪くてさ」と話すお母さんと似たような気持ちかも。そうはいっても、けっこういいよね、うちの庭!と思っている。
そもそも私は、草が好き。子どものころ、豊かな自然は身近になかったが、空き地や国道脇にも草は生えていた。タネを飛ばし、着床した場所で根を張り、花を咲かす。時にはアスファルトさえ突き破る。私にとって、「野の花」というより、「草」のほうがしっくりくる感じだ。
草は、茎が曲がっていたり、葉っぱが虫食いだったりする。それが唯一無二ですごくいい。子供の頃から花を摘んで、家に持って帰った。母は、コップに花を入れてくれた。いつしか私は、草の花を家に飾るようになった。
ただ、道端にしゃがんで草を摘むのはちょっと恥ずかしい。誰に気兼ねすることなく、草を摘みたい。草の庭をつくる理由のひとつだ。
待宵草は、植えたわけではない。というか、「抜かなかった」というのが正しい。
草は好きだけど、どんな草でもいいわけじゃない。私にも好みがあるし、向こうが気に入らない場合もある。草は案外気難しい。道端や野山で咲いていてきれいだと思ってとってきて植えても、育たないことが多い。だから、無理に移植するのはやめてしまった。
その代わり、「えこひいき」して草取りをする。セイタカアワダチソウは、背丈にもなるしやだなあ、と思ったら抜く。かわいい花咲いてるわあと思ったニワゼキショウは残す。う~ん、これどっちだ?と思った時も残す。待宵草は、三年前から、私が特別扱いしている草なのだった。
あまりきれいなので、両親を呼んで、「待宵草を愛でる会」を催すことにした。日が伸びているから、両親が到着した18時頃は、まだ三分咲き。夫も帰宅して皆でお寿司を食べながら、思いがけない話を聞く。
40年前、結婚してこの家に暮らし始めた母を、小学校の恩師が訪ねてきた。山野草好きだったその先生が「きれいだから植えなさい」と言って、待宵草の種をくれたという。「その時の待宵草が代々生き残ったのかな」と盛り上がる。
20時頃、皆で庭に出る。暗くなった庭に、黄色い小さな花が咲き乱れる。
待宵草は、一日の命の花。
これだけの花が、全て、明日の朝には、小さく萎んで終わる。
いつか皆死んでしまうなんて、何もかも忘れてしまうなんて、かなしい。
だだっ広い宇宙の中で、どこに行ってもいいのに、今、我が家に集まっている四人と四匹。
宇宙の隅っこの吹き溜まりみたい。
皆一緒にいたいと思っている。
だから、ここにいる。
愛しい、愛しい、吹き溜まり。
ワイヤープランツもじゃもじゃ帝国
朝、6時50分、夫を送り出してから、2階の仕事部屋に上がる。集中力が必要なライティングの仕事を午前中に済ませ、昼過ぎからは単純作業をする。15時にはポンコツになり、仕事を終了するのがルーティン。
面倒くさがりで全然丁寧な暮らしをしていない私。気分がのらないのらないと言っているうちに、庭の秩序が乱れ始める。今日は、もじゃもじゃ帝国を築きつつあるワイヤープランツから花壇を救出することがミッションだ。
腰をかがめると、目線がぐっと落ちて「虫の目」になる。小指の爪ほどの小さな花を発見。
へえ、トキワハゼも生えていたんだ。抜かずに残そう。地面に這いつくばって何してるんだろ。ふふふと思わず笑う。
「そんなの全然うらやましくない」と笑ったのは、東京の真ん中で暮らす友人だった。私にとって、誰かがつくったアミューズメントパークより、自然に触れて何かつくり出す方が面白い。
太陽が雲に隠れると、色調が変わる。黄緑は、緑になる。焦げ茶は黒になる。また、黄緑になる。焦げ茶になる。
鎌を動かす手をふと止める。
ユーカリの影が、園路に落ちている。
いつの間にか体育座りで、影に見入る。
梅雨の晴れ間にしては、乾いた涼しい風がわたっていく。
ざざざざざざあああ
ユーカリがしなる。
心の底に沈んでいた考えや思いが、スノードームみたいに、浮かんではひるがえって、また沈んでいく。
「唯ぼんやりとした不安」
唐突に、こんな言葉が浮かぶ。
芥川龍之介が、書き遺した言葉だ。
唯ぼんやりとした不安、がある。
生きているうちに、環境破壊がこれだけ進むとはなあと、ぼんやりと思う。「人類」という映画を神様が監督していたとしたら、起承転結の「転」の始まり位に感じる。
まあでも。
人間ばかりの地球でもなし。
と、ぽっくりぽっくり流れる雲を見ながら思う。
人間が立ち入ることの出来なくなったチェルノブイリは、野生動物の王国になっているとも聞く。
そもそも、人類以外の観客は、飽き飽きしていたかもしれない。「いい加減主役が交代してもいいんじゃない?」と。
次の主役は、人工知能(AI)なのだろうか。近い将来、人工知能の賢さが人間を超え、人間の生活を変えてしまうと予測されている。
人工知能(AI)が、素敵な庭をデザインして、ロボットが花や木を植えることができるようになるのかもしれない。
それでも、きっと、私は、パソコンを閉じて、庭に出るだろう。
誰かが自分より、上手くできるとか、関係ない。
グローブをはめた手で、地面をはらう。
ぱっと黄色い砂煙が立つ。
うちの土は粘土質で硬く、乾いている。
最初は、そんなこともわからず、水を好む草花を植えて全滅させてしまったっけ。ある日、土を触っていて気付いた。
「熱帯地域の植物なら育つかもしれない」
園路脇に植えたヒメイワダレソウは、熱帯アフリカやアメリカの海岸地帯に自生する植物。2本のユーカリの原産地は、オーストラリア。頻繁に山火事が起きる乾燥地帯だ。見事にはまって、うちの庭を形づくる上でかかせない存在になった。
更地からここまでに6年。庭づくりを習ったわけではない。教科書に書いていない。ネットで探してもない。土を触り、草を摘んで、自然から、手加減を学んだ。
私がなにか言ったり、書いたりすると、「それは、〇〇が言ってたよ」「〇〇の本に書いてあったよ」と言われることがある。そのうちに、「AIが言ってたよ」って言われるかもしれない。
賢者は歴史に学び、愚者は、経験に学ぶ、という言葉がある。私は、ひたすら愚者だったし、これからもそうなのだろう。ひとつひとつ、目の前の命に触れながら生きたい、自分の言葉で語りたいと思う。
23時29分
小さなダイニングには、庭に面して掃き出しの窓がある。遠くに青白く光る街灯。庭は闇に沈んでいる。マホガニーのどっしりとした円卓は揺るがない。
寝室から、ぐうっぐうっと夫の規則正しい寝息が聞こえる。猫たちは、寝息も立てず静か。私は、目をつむり、シーリングライトの光の重さをまぶたに感じている。
庭は、つくった人そのものと言える。
その人が、世界からよしと思って選び、大切に守り育てている場所。
ここには、私のかけらが埋まっている。
庭は、儚い。主がいなくなれば、あっという間にやぶに戻ってしまう。
それでも、私は、庭をつくる。
花が枯れると悲しい。枯れないでほしいと願う。
でも、枯れない花があるとしら、こんなに輝いて見えるだろうか。慈しむ気持ちも永遠を願う気持ちも生まれない。
生の輝きは、死に支えられている。
永遠じゃなくていい。永遠じゃないからいい。
夏虫が、庭で、リーと鳴いた。
大谷八千代
2024年7月4日
草の庭で記す