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日本語教員試験2024体験記(「一億総日本語教師社会」編)

この記事は、「日本語教員試験体験記」の第23回です。
前回までの記事は、noteのマガジンにまとめていますので、合わせてお楽しみ下さい。

新任教師の心を折る最大の言葉は「昨日の先生の授業で、学生に『入って』いませんでしたよ」説

日本語学校の業界用語なのか、それとも関西独特のものなのかはわかりませんが、学生に授業した結果、学生が理解した、覚えた、使えるようになったという意味で「入った」という言葉を使います。◯◯君、まだ「テ形」が入ってないからなぁ・・・という使い方です。今回の記事では、この「入った」「入っていない」を巡るお話です。日本語教師と縁が薄い方にも伝わるように書いて参りますので、お楽しみください。

初級の壁「て形」辺りが問題になる

日本語教育に馴染みがない方からすると、「て形」ってなに?ということになります。これは、「食べる」という動詞の「食べて」や、「する」という動詞の「して」というような「〜て」につながる形なので「て型」とされています。

なんだ、「連用形」のことかとお気付き方は勘が鋭いです。しかし、それは国語文法(国文法)の話ではそうなのですが、連用形のうち、「〜ます」という形を「〜ます形」と言うことにしていて、「食べます」、「飲みます」というように、「〜ます」で終わる形を「〜て」で終わる形と連用形から分けて教えているのが日本語教育です。

私は「ます形」から教えるのは嫌いなのですが、「ます形」で教える一定のメリットはあると思います。「ます」は丁寧な言い方です。だから、何事も丁寧な言い方から覚えていけば、日本語の初学者にとってトラブルを避けやすいということがあるんですね。レストランに入って、外国人店員に「入る!座る!食べる!払う!帰る!また来る!」と言われたら怖いです。「入ります。座ります。食べます。払います。帰ります。また来ます。」と言われれば、多少変な感じではありますが、いやな気持にはなりません。逆に、初学者に対して、今持てる語彙の範囲でわかりやすく調整する話し方のことを「ティーチャートーク」といいますが、これも「ます形」中心でスタートします。

ところが、初級の前半を終わるくらいで、「ます形」だけではどうしようもなくなってきます。国文法で終止形といわれる「辞書形」、連用形のうち、接続助詞「て」につながる形としての「て形」をマスターしなければ、その後の学習が続きません。「置く」+「てください」=>「置いて下さい」というように、様々な表現には接続のルールがありますから、「て形」は日本語学習の最初の壁といってもいいわけです。

工夫を凝らして「て形」を導入する。

動画を紹介します。「て形の歌」です。この冒頭の歌詞に「いちりって、みびにんで・・・」と出てきます。

これは、「ます形」を出発点に考えていきます。

買「」ます (買う)
「い」ちり「って」により、「買って

立「」ます(立つ)
い「ち」り「って」により、「立って

帰「」ます(帰る)
いち「り」ってにより、「帰って

て形の導入

日本語を母語話者とする方からしたら、なんてめんどくさいんだと思うでしょう。「買う」+「て」=>「買って」で、いいじゃないか!と。全く仰るとおりです。それができるなら、「ます形」も、「いちりって」の覚え方もいらないんです。日本語学校の留学生は、どんなに国で勉強をサボって入国してきても、アルバイトにかまけて自宅で学習をしなくても、学校で寝さえせずにやっていれば、「て形」ができないということは、あまりないです。あっという間にマスターする学生もいれば、時間がかかる学生もいますが、1年たって「て形」ができないという例はありません。もっとも、なんとかして「入れ」ないと後がヤバいですから日本語教師も必死ですけどね。

日本語学校は日々「引き継いで」いくスタイル

日本語学校は、ティームティーチングということで、日々授業担当が交代していくスタイルをとることが多いです。月曜日は担任の山田先生、火曜日は田中先生、水曜日は鈴木先生で、木曜日再び担任の山田先生、金曜日は佐藤先生という感じです。また科目も「日本語」という一課目です。技能としては「読む」「書く」「聞く」「話す」ということになっていますが、国語算数理科社会のような科目には分かれていません。

授業が終わると、次の授業日の先生への「引き継ぎ」が重要になります。予定していた教科書のページをやり残したとか、◯◯君が遅刻したとか、内容は様々です。◯◯さんが元気なかったから心配だ、ということが書いてあれば、他の先生からもケアができます。現在、私の勤務校では引き継ぎのデータベースが整備されていますので、授業をしながら記録を書いていくと、授業終わりに玄関で校長先生が引き継ぎ内容に基づいてリアルタイムに対応していくということが習慣化されています。

「報告」や、「引き継ぎ」は、いいことばかりじゃありません。組織の仕事の中では、上司は「悪い報告をした部下を褒めろ」という考え方が好きです。「そんな報告をするな」とか、「そんなことはあってはいけない」という上司は最悪ですよね。事実だから報告しているのに、都合のいい事実しか持ってくるなというのは本末転倒です。

いわゆる日本人の習性でしょうか。「反省文を書け」と言われると、悪いことばかりを書きます。あれができなかった、これができなかった。全部私が悪かった、これからは良くします。という一定の作文の型を、義務教育中に叩き込まれました。悪かったことは、以後良くしますという決意にすれば書きやすいのですが、よかったこととその原因を述べると「自慢」とされてしまいます。私の授業準備がよかったから、授業がうまくいきました!なんてことは、新任の先生としては書きたいけど、書けないです。おそらく、良かったこと、悪かったことをバランスよくしきつめて、次の先生に迷惑がかからないように、情報の過不足なく書くのが「引き継ぎ書」というものでしょう。

「翌日の先生」が嫌いになる

火曜日に私が授業を担当したとします。すると、水曜日の先生が授業が終わるとともに、真っ赤な顔をして怒鳴りこんできます。「先生、昨日の授業は一体何をやったんですか?まったく「て形」が入ってませんよ!」という具合です。この、「あなたの授業で、学生が理解していなかったです」フィードバックは、本当に教師にとって辛いものです。

学生が理解できなかった、翌日覚えていない原因は様々です。原因と、このフィードバックによって生じる心の中のもやもや感。教師の心を折ってくるものを挙げてみましょう。

  • ご指摘ごもっともな「教師の準備、力量不足」説

  • そもそも難しい単元「一日で簡単にマスターできるなら苦労しない」説

  • ならお前は入れられるんかい!なんで私だけのせいになるの」論

(心を折られた先生の気持ち)

自分の力量が足りなかった。そうなんです。まだ新任なんです。一生懸命やったけど、学生にとって分かりづらかったところがあるかもしれません。そもそも難しい単元なんです。一日で覚えられるようなところなら、日本語教師いりません。むしろ、日本語が難しいので、我々はご飯を食べられるので、いいじゃありませんか。そんなに真っ赤な顔で怒らなくても、昨日の復習でもう一回導入したらいいじゃないですか。ベテランですよね。どうして、新任に難しいところを押し付けて、フォローもしないで結果だけ見て怒るんですか。授業を見てやるっていっても、抽象的なアドバイスしかしてくれないし、あんたの授業見に行ったら学生グズグズになってたじゃないですか。

新任の先生の心の中

さて、この先生が本当にこう思ったかどうかはわかりません。しかし、「あなたの授業で、学生が理解していなかった」というフィードバックを食らうと、このような思考になってしまうのも、仕方ありません。以後、「あの先生の翌日は嫌だ。」と嫌いになって、いろいろ言われないように「引継書」には反省ばかりが並ぶことになるでしょう。

新任の教師の成長という観点では、大変むずかしいところです。指摘して、指導された方が伸びるということはあります。やる気のある教師なら、どんどん先輩教師に相談して、どのように教えればいいかを研究するでしょう。しかし、「妙な指摘の仕方」により、様々な要素とあいまって「負の連鎖地獄」に陥ってしまうのです。

日本語教師になってからの苦労

日本語教師というものは「なるのが大変、なってからが大変、続けるのが大変」という三重苦の現実があります。もちろん、この上ない喜び、楽しみ、自己成長の可能性が秘められた仕事であることは声を大にして言いたいのですが、積極的に自分自信を成長させていかないと、いつまで経っても辛いだけなんですね。学習者も勉強しますが、日本語教師は学習者の数倍勉強しなければいけない宿命を背負っています。

中堅、ベテランの先生も、最初からうまく授業できていたはずがありません。現場経験を通して、少しずつ改善してきたのです。それを自分ができるからといって、「どうしてできていないんですか?」というスタンスは、親が子どもに勉強を教えているときに「なんでこんな問題もできないんだ」とイライラして、勉強にならないのと同じです。経験があって、より授業力がある人こそ、経験が浅い先生を育てていく姿勢が必要ですよね。人手不足の日本社会にあって、「ブラックな職場環境」の学校は、あっという間に嫌われてるでしょう。「認定日本語教育機関」に認定されたはいいものの、あそこの学校はブラックらしいよと噂が回れば、「登録日本語教員」が応募してくれるはずがありません。学生を育てる前に、教師を育てることができることが、日本語学校を初めとする日本語教育機関にっては最重要の課題と言えるでしょう。

「ありのままに学習者を引き受ける」という日本語教師の矜持

登録日本語教員の資格を取っても、日本語学校の現場でやっていけるか不安な方も多いと思います。確かに苦労はするでしょうが、その苦労を楽しい苦労に持っていければ、誇りを持って働ける日はくるはずです。

中学校の先生は「小学校で習ってないのか?」と言います。高校の先生は、「中学校で習ってないのか?」と言います。以下同様で、一つ上級の教育機関が、前の段階の教育機関のせいにしてしまう現象です。これらの学校では当然教育の一貫性が求められます。前の段階でやったことを前提に次の段階に行くのは当然です。だから、「習ってないの?」ということも、ある程度理解はできます。

一方、日本語教師はもはや誰のせいにもできません。「国で勉強していなかったのか?」と問い詰めたところで、ひらがなもカタカナも書けない現状は変わりません。私がWebセミナーを受講したときに、他所の日本語学校の校長先生に質問しました。「やる気がない学生、やんちゃな学生に対してはどのような対処方法があるか。どのようにすれば授業を盛り上げることができるか」という趣旨です。その校長先生は「質の高い学生が来るようにエージェント(紹介業者)を絞り込む。厳しく査定して、学習が進んでいない学生を入国、入学させないようにする」と述べられました。経営、運営的な観点でいば真理、御説ごもっともなのですが、日本語教師の現場の悩みは何も解決されなかったのです。

現実こんなもんですから、あまり気にしないことが大事です。徐々に日本語教師としての誇りを固めていきましょう。

ものは言い様、考え様の「日本語教師」

しかし、ものは考え様で、「日本語教師はゼロから外国人に日本語をマスターさせることができる」と思えば、誇らしいものです。私は「日本人なら、だれでも日本語教えられるっしょ」という一般的な感覚に対する耐性がとっくに完成していますが、あえて反駁しておきましょう。たしかに、「目前の簡単な日本語表現の意味は教えられる」かもしれない。しかし、「多様なニーズ、多様な背景の学習者に、難解な日本語の文字語彙、文法を導入し、自律的な学習ができるように導くことは、とうてい素人にはできない」と断言できます。「誰でもできる」と言われたら、そうだねぇ、簡単だよと顔だけ笑っておきましょう。心の中で「プロを舐めんな」とでも「バーカ」とでも思えばいいです。内心の自由ですから。

「一億総日本語教師社会」

日本語は日本人なら誰にでも教えられる」という考え方は、実は大切なことです。良し悪しは別として、これから日本にはもっと多く外国人が入ってきます。日本語が話せないままの外国人が、日本社会に馴染まず勝手きままなコミュニティを作るのを放っておくのか、外国人と日本人が日本語で共生する社会にするのか。そういう意味では、誰もが日本語を教えられる社会という考え方が妥当だと私は思います。私はこれを「一億総日本語教師社会」と名付けました。

みんなで日本語教えようという社会になれば、日本語教師のスキルが、やっぱりすごいものだと認知されるのではないでしょうか。少なくとも、昨日の担当の先生に「あなたの授業で、学生が理解してませんでしたよ」とマウントを取ってる暇はありません。学生に対してはもちろん、後輩も先輩も含めて、「教え方を教えられてこその日本語教師である」と、私は思います。誰もが日本語を次々に教え合って波及する。学生同士で教え合い、学び合ってくれたら、我々も仕事が楽になるし、より先のステップへ学習を進められますね。

まとめ

今回の記事は、私の拙い経験を通して日本語教師という仕事について考えてきたことをまとめたものです。異論、反論、オブジェクション、いろいろあるでしょう。「これって私の感想」なんで、一般的なことは言えません。難しいことは国がやってくれているので、建前上、おとなしく従います。日本語教師がより社会に認知され、地位や待遇が向上していくことを願いつつ、日々頑張って参ります。


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