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日本語教員試験2024体験記(中学英語と日本語、「形容詞と副詞の灼熱地獄」編)
この記事は、「日本語教員試験体験記」の第21回です。
前回までの記事は、noteのマガジンにまとめていますので、合わせてお楽しみ下さい。
英語と日本語(国文法)の壁:「形容詞」か「副詞」か問題から始まる灼熱地獄
言い切りの形(終止形/辞書形)の形が「〜い」で終わるものは形容詞で、「〜だ」で終わるものは、形容動詞であるということは、義務教育のおける国文法分野で、授業や問題演習を通して経験的に叩き込まれます。曖昧な記憶で恐縮ですが、私の経験としては、小学校の高学年で「主語」「述語」という文節単位の機能的な概念を導入され、いつの間にか「名詞」「形容詞」「形容動詞」「動詞」・・・という単語、つまりパーツ的な分類、分析のための用語として進んでいきます。
中学校の国語の授業では、なんとなく小学校でやった国文法を仕切り直して、「自立語」や「付属語」という概念から、「国語」すなわち「日本語」はこのようにできているんだということを学んでいきます。「国語」と「日本語」を分けて書いているのは、母語としての言語か、日本語教育の文脈で語られるような外国語・言語としての「日本語」を分けるものですが、今回の記事では概ね「国語」=「日本語」としての意味で使用いたします。
中学校の英語の先生とは残酷なもので、「いつの間にか当たり前のように使用される文法用語攻撃」で生徒を混乱させてきます。「受身形」や「現在進行形」などですね。高校に行くともっと攻撃は激しくなり、「時制」だのなんだのと、いつ習ったっけ?という文法用語の波状攻撃を「灼熱の炎」で浴びせてきます。教科書の隅や、参考書を先読みするか、塾で習っていない生徒からすると地獄。「三単現のS」くらいまではなんとか乗り越えたとして、「分詞」「動名詞」「不定詞」などで頭はクラクラ。しまいには参考書には「準動詞」などという括りが登場しますが、文法用語を予め導入された記憶はなく、自分が勉強していく中で、進研ゼミをやっていたり、塾に行ってる友人がなんか言っているぞということを聞き取って「帰納的」に理解するしかなかったと、私は記憶しています。当時の先生からすると「最初にちゃんと導入した!」と怒られそうですが、「相手に伝わってないものは言ってないのも同じ」という民間の営業マンの感覚で話を進めます。
He runs fast. (彼は はやく 走る。)
英語表現として存在するかどうかはさておき、中学英語の象徴的な例文として挙げてみました。
Heは、「彼は」という意味の「主語」です。
runsは、「走る」という「動詞」で、Heという三人称で、単数で、現在形なのでrusにsがついていいます。(三単現のS)
fastは、「はやく」という意味で、副詞です。(高校英語的に言えば、)S + V + Mの、Mにあたるもので、第一文型SV型なので、必須要素ではなく、なくてもいいものです。
この時点で、ゲップが出そうです。Mは必要ない?なぜ?と私は思いました。そこ一番伝えたいことじゃないの?と。学校で「英語の五文型は、SV、SVC、SVO、SVOO、SVOC」と習います。Mはオマケ要素なので、必要ない!無視して文型を把握しろ!と先生は言います。たしかに五文型は、英語の文型を説明するのには便利なものです。学校英文法の象徴として揶揄されることもありますが、結局のところ英文法を説明する参考書のスタートは、ほぼ五文型からスタートします。中には「英語の文型はSVOのみだ」と提唱する先生もいますが、圧倒的に五文型が席巻しています。これが英語母語話者にとっては便利なものだが、日本語を母語とする英語学習者にとってどうなのか、という問題もあるのですが、今回はちょっとおいといて、もう少し前の段階を考えていきます。
英語の授業で、「はやく」は副詞と説明されました。「名詞を修飾・説明するのが形容詞(的要素)」とすれば、「名詞以外を修飾するのが副詞(的要素)」と定義されます。
This pen is very nice. (このペンは とても いい。)
niceが、「いい(よい)」という形容詞だとすると、「とても(very) よい(nice)」ということで、veryは、形容詞を修飾している副詞だといえます。
Thank you very much. (とてもたくさん 感謝しています > ありがとうございます。)
muchは、「たくさん」という「副詞」で、Thank(感謝する)という動詞を修飾しているようです。very は、muchを修飾していて、「とても たくさん」ということで、副詞が副詞を修飾しているといえます。
He runs fast. (彼は はやく 走る。)
頭書の例文を見ると、fastという「副詞」は、「走る」という動詞を修飾しています。「副詞」としては、最も直感的にわかる例です。
この3つの例から総合して、「副詞は、名詞以外を修飾するもの」という定義を再確認できますね。今後「副詞」が、「副詞句」・「副詞節」と進化していっても同じです。対照的に、「形容詞」が、「形容詞句」・「形容詞節」と進化しても、まとめて「形容詞は、名詞を修飾するもの」という定義も再確認できました。
ここまでは、なんとかなるんです。高校1年生の英語という感じです。これから大学受験の英語科目対策をしていく時に、授業を受けるにも、問題集を解いて解説を読むにも、大前提として「名詞」「形容詞」「副詞」「動詞」の4つを抑えておかないと、話になりません。つらいですが、この定義はしっかりと抑えたいところです。
問題は、この定義を前提として、英語に躓いた生徒に英語を教えようとするときに、英語文法の世界だけでは済まない問題が顕在化してきます。再度例文を挙げます。
He runs fast. (彼は はやく 走る。)
fastは何詞?と先生が聞きました。ここでは、「副詞」と答えるのがスジでしょう。しかし、国語の授業を真面目に受けた生徒の方がかえって混乱します。
(生徒の心の中)
「はやく」は、「はやい」という語だから、「形容詞」じゃないの?なんで「副詞」?
(先生)
次の例文です。
He waks slowly. (彼は ゆっくり 歩く。)
「ゆっくり」は副詞です。動詞「歩く」を修飾しています。
(生徒の心の中)
「ゆっくり」は副詞?「ゆっくりだ」で、形容動詞じゃないの?なんで副詞?どういうこと????
大学入試のために英語を学んだ方ならば、「副詞」というものを理解して、英語という言語の中で「これが副詞だ」と把握することができるでしょう。しかし、国文法の授業と並行して文法用語にさらされた生徒にとってはどうでしょうか?英文法解説における「副詞」は、連用修飾という機能に注目した分析で、国文法解説における「形容詞」は、言い切り(終止形)の語尾が「〜い」で終わるもので、「形容動詞」は、言い切り(終止形)の語尾が「〜だ」で終わるものだから、「英語における副詞」と、「日本語における形容詞・形容動詞」は分けて考えなければならない、ということになるのですが、中学生がこれらをの厳密な定義を理解を前提として勉強できるでしょうか。はっきり言って、地獄だと思います。別の例文を挙げます。
This is a pen. (これは ぺん です。)
isは「です。」
isは「です」なのか。「英語にも丁寧語があるのか」と、私は思いました。実際には、繋辞(コピュラ)というもので、「AはBだ(です)。」と、AとBをつなぐのがbe動詞としてのisです。「です」という翻訳はたまたまで、「だ」とも言えるし、「である」とも「なのです」とも訳出される可能性があります。ただ、初級の第一歩としてわかりやすく「です」と提示されたのですが、私としては国文法で習った「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」が邪魔をして、英語にも「丁寧語」があるのかと、混沌からスタートしていったのです。
次の例は、日本語が誇る例文です。
This is a pen. (これは ペン です。)
Thisは、「これは」を意味する「指示代名詞」で、この文では「主語」になっています。
「これはペンです。」なんて言う場面がない!と、この例文は話せるようにならない日本の英語教育を批判する格好の的になります。実際には教科書には出てこないと思うのですが、上の世代から少なくとも氷河期世代のわたしの世代にかけて、「This is a pen.」と教えても話せるようにならない!と批判されきたと思います。
たしかに、これだけで何かが話せるようになるとは思えないところもありますが、ここでは学習上の都合で、まだ単文の世界です。重文、複文と、この単文を基礎にして組み合わていくと、表現できることが広がります。This is a pen.という例文が示すことは、SVCという第二文型ということもまずありますが、「これはペンです。」は、さまざまな表現の学習への入り口としてわかりやすくしたモデルだということです。「そんな英語はない」論は、一旦忘れましょう。
この例文には、文法や語彙の広がりの可能性を秘めているだけでなく、日本語と英語との溝を逆説的に埋める効果があると私は思っています。唐突に何を言い出すの?と思われたでしょうが、次の例文をご覧ください。
This is a pen.
This pen is very nice.
(英語が苦手な中学生1年生に教える家庭教師)
This is a pen. は、(これは ペン です。)だね。
penって、1本、2本って数えられるでしょ?
数えられる名詞で、1本のときは、aをつけるんだ。だから、a penだね。
This pen is very nice. (このペンは とても いい)
very nice (とても よい)は数えられる?1とてもいい、2とてもいいって数えられないでしょ?だからaは要らないんだ。
aという不定冠詞の教え方がいいかどうかは、この際置いておきます。中学1年で躓いて、成績が1と2を行ったり来たりしている段階の生徒に、家庭教師なりに工夫して教えているとも言えます。横で聞いている親も、わかりやすいわねぇとうなずくような内容です。冠詞の定義はそういう説明じゃだめだぁ!とか、スペイン語では形容詞にも複数形があるんだぁと、茶々を入れるのは野暮、いけず、ということにして、ここでの中学生の心の中を想像してみることにしましょう。
(中学生の心の中)
Thisって、「これ」ってのはなんとなくわかるけど、
This is a pen. のときは 「これは」なのに、
This pen is very nice. のときは「この」になってる。
同じThisなのに、「これは」なの?「この」なの?わけわからん。
Thisについて、中学校の先生は生徒にどのように導入しているでしょうか。実際に指導要領的なマニュアルがあるかということではなくて、生徒が現場でどのように受け止めているかが重要です。私の感覚では、先生は単純に「指示語」としてしか定義を言っていないような気がします。「指示代名詞」までいけばいいところですが、「代名詞」の導入が必要になるので、私が英語教師だったとしてもここでは「こそあ」としての指示語という説明にとどめて、細かいことは後回しにしたいところです。
スペイン語でいえば、名詞を修飾する指示語として、「指示形容詞」と定義されています。この定義は、「名詞」「動詞」「形容詞」「副詞」の4類型スタートに沿ってもわかりやすいものです。「形容詞」の派生版として理解できますからね。しかし、「指示形容詞」という定義は中高の英語教科書の中では導入されない(と思う、推定です)ので、「これは」という日本語の主題化のための「取り立て助詞」の「は」も相まって、「この」という言葉との対照が大混乱の原因となってしまいます。
もう、この辺の話は「英語を話せるようになるための学習」とは異次元のものです。まず、英語の学習に入るために、日本語の世界の中で準備しておかなければならないことがあるのではないか、という思いに駆り立てられるわけです。
もう一つおまけで例を挙げます。今度は、国文法と、古典(古文)文法の間で起こった文法用語の問題です。
国文法
「この」 → 「この」本 体言(名詞)につく「連体詞」である。
古典文法
「この」 → 「こ」代名詞 +「の」格助詞 である。
「なんで古文と現代文で、文法用語変わるんだよ」というわけです。現代文は現代文、古文は古文で学びますから、自分で横断的な比較して、帰納的に理解していくしかありません。英語、国文法、古典文法のどの場合でも職員室の先生に質問にいけば、「それは国語の先生に聞きなさい。」「それは英語の先生に聞きなさい。」と、セクショナリズム、縦割り教育が炸裂します。塾に行っても似たようなもの。「結局、全部を通して、誰に聞いたらいいのよ?」と。
まとめ:日本語教師が英語学習の架け橋になる可能性
日本語教師にもいろんな先生がいて、「国文法」が実は大好きな先生もいれば、外国人学習向けに洗練化された「日本語教育文法」しか知らないという先生もいます。英語が得意な先生もいれば、他の言語は全く知らないというかたもいて、様々でしょう。教師の背景はともかく、日本語学校の教育理念、教育方針、カリキュラム、シラバスに沿っていけば、概ね「直接法で、日本語教育文法」で教授するのが標準的だろうとは思いますが、JLPT(日本語能力試験)N1・N2という段階までくると「〜ずに」の用法や「〜ざるをえない」の用法も登場するので、実は古典文法の知識があったほうがいい場面もあります。古典文法をそのまま導入するべきだと私は言っていませんが、そのまま覚えろ!と学習者に投げるだけでなく、深く知りたいと学習者が思っているときに日本語教師は「それは古文先生に聞きなさい」とは言えませんので、受験勉強で培った古典文法の知識を活かせる場面もあるわけです。また、日本語教師をしていると友人に言うと、「英語話せるの?何語で教えるの?」と聞かれるのは、鉄板あるあるですが、日本語以外に何語ができなければいけないというわけではないが、いろいろ外国語ができれば、役に立つことがあるというのは普遍的な原理でしょう。
なぜ、中学校の時に英語に苦労したのか。躓く原因は何なのか。これは大学教授の先生方や、中学校、高校、塾、予備校の先生方の中で様々議論されているところです。話せるようになるための英語教授法、ということについては、私は専門外ですので、あれこれ申し上げることはできません。しかし、現実目の前の中学生が勉強に躓いている原因が「日本語(国語)」にあるというところを、今回のエピソードを通して、わずかながら可視化できたと思います。「じゃあ、どうやって教えればいいんだ?」ということについて、現段階で明確な答えはないのですが、日本語教育というものが、外国人学習者が日本語を学ぶためだけでなく、日本人(日本語母語話者)が英語を学ぶ際に、言語の溝を越えるための架け橋になれるのではないか、と私は思っています。そもそも難しい日本語を、ゼロから学習者に導入できるのが日本語教師というものですから、日本人に日本語をわかりやすく導入するときこそ、真価を発揮するのではないかとは言えないでしょうか。
「英語を難しくしているのは日本語」仮説とも、「英語をわかりやすく学ぶために日本語を活かす」仮説とも言えますが、「日本語を母語して育ってしまった以上、日本語を駆使して、日本語そのものに加えて、英語その他の諸言語を学びやすくする工夫」というものが、日本での教育の中でもっと具体化されていくべきだ、私は考えています。あらゆるもの・ことを飲み込み、よりよいものに改良したり進化させることができてしまう日本語。日本語をもってすれば、実は英語を飲み込むことなんて、夢物語じゃないのではないか。そんな夢を見て、来週の授業の準備を始める日曜日なのでした。
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