Viva Video!久保田成子展感想、あるいはアンチ・オイディプス的読解の試み
「それに、死ぬのはいつも他人」。
デュシャンの墓碑は一種の勝ち逃げ宣言だ。デュシャンもまた他人になる。他人には常に追いつけない。しかし、その他人は応答責任をもたらす。
彫刻や絵画や、旧来のジャンルでは今以上に女性の進出が難しかった時代、ビデオというメディアはまだ新しくフラットな状態だったから、多くの女性が当時その表現媒体を選択したという(註1)。
久保田のオリジナリティは、そこでビデオを彫刻化した事にあると言われている。当時のビデオアーティスト達が映像内容に夢中でその造形に気を遣わなかったことと対照的に。スクリーン内で進行する物語ではなく、ビデオそのものを造形作品として扱うこと。フルクサスに参加していた頃から、造形作品としてモノが残らないことに不満を感じていたらしい。デュシャンピアナシリーズは75年からなので、アプロプリエーションの先駆と言える(註2)。
長谷川祐子著『破壊しに、と彼女達は言う』の中で指摘されていたが、久保田に父(すなわち実父、デュシャン、マチューナス、パイク)を越えようとする強いコンプレックスを見出すのは、確かに妥当だと思う(註3)。節々でそれはうかがえる。結局は伝統的ジャンルたる彫刻へ回帰したこと、そこで復讐を、そして勝利を宣言をしたこと(video is vengeance of vagina. video is victory of vagina....)。
それは美術界において「初めから持っていなかった」という欠如のシニフィアンを、無限に追い続けることなのか?
彫刻に刺し込まれたビデオ、デュシャンに刺し込まれたビデオは、エディプス的な父殺しを反復することになるのだろうか。
それとも刺し込む元の対象を利用して、別のものを作ろうとするのだろうか?父の喪失を前に泣く事しかできなかった《私のお父さん》の頃から、デュシャン=父権的美術史を換骨奪胎するまでに?いつのまにかその中に入り、それを作り変えてしまうこと。
ビデオ彫刻が「器官なき身体」のメタファー(時間に沿って進行する物語を廃し、画面をシンセサイズし不協和音を生むと言う点で)だと言う指摘(註4)は、アンチ・オイディプス的な文脈を誘う。
『アンチ・オイディプス』において、精神分析の第四の誤謬推理として挙げられていたもの。禁止=法が、欲望を歪曲し、置換された表象内容を作る。隠されるから、見たくなる、しかしそこで見たくなるものは、本来見たかったものとはすり替えられている(註5)。
それに従えば、久保田についてのオイディプス的な解釈も誤謬...美術史という法が、ビデオ本来の欲望機械を歪曲し、父を超えていくという欲望へとすり替えて、エディプス的な物語が作られる...ということになるだろうか。さらにドゥルーズ+ガタリに沿って言うなら、その理由は、欲望機械が法を危うくするという点に求められる(註6)。
例えば《デュシャンピアナ:階段を降りる裸体》について言えば、デュシャン自身の《階段を降りる裸婦Ⅱ》からリヒターの《エマ(階段のヌード)》、さらにそれを引用した森村泰昌《階段を降りる私/リヒターに捧げる》、彼らが皆階段の上を歩いている脇で、久保田成子の裸婦は階段の中を歩いてる。そこから比喩的に、美術が上部構造であるならば、「欲望は下部構造」だと言ってみる(註7)。
ただ、ここで久保田作品はまだ、硬い外皮(モル状組織体)に包まれている。だから《河》《ナイアガラの滝》と言ったその後の作品で鏡や水でビデオ映像の光を乱反射するのは、外皮の外へ、多方向に逃走線を引く一つのやり方になる。
漏水、漏電、逃走線。
展示空間を満たす、ちらちらと軽妙な光の揺れに目を遣る。久保田は時間構造を梱包するという意味で、ビデオが四次元媒体だと言う(註8)。そしてビデオが映し出されるスクリーンが二次元だとしたら、それを組み込む彫刻は三次元であり、合わせ鏡はまた別の意味で、空間的な四次元を予感させる。さらにその鏡は光を反射して、展示空間の壁にもう一度、二次元の影を投影するだろう。
潜在的な光の屈折、分裂、が展示空間を満たしていることに気がつく。
利害の前意識において革命的であれ、無意識において反動的なことがあり得る(註9)のなら、その逆はあるかどうか。その指標を探してみること。
欲望を駆動させるのは欠如ではないし、
欲望には何も欠けるところがない。
それが勝利宣言になるだろう。
註1.『Viva Video!久保田成子展』(展覧会図録)新潟県立美術館/国立国際美術館/東京都現代美術館p.187
註2.同書p.188
註3.4 長谷川祐子『破壊しに、と彼女たちは言う』東京藝術大学出版会 p.46
註5 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 上』宇野邦一訳、河出書房新社、2006年 pp.220-221
註6 同書p223など
註7 同書p200
註8 『Viva Video!久保田成子展』(展覧会図録)新潟県立美術館/国立国際美術館/東京都現代美術館 p.62
註9 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 下』宇野邦一訳、河出書房新社、2006年 p245