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さよならを育てるー「アリア」_BUMP OF CHICKEN試論#short007
今回は僕の数少ない友人のひとりであるY君のリクエストだ。僕のような阿呆と親しくしてくれる、稀有な男である。
Y君が「アリア」と言ったとき、「やるじゃん」と僕は思った(何様)。「鏡」「傷」そして「迷子」……本作「アリア」には、BUMP作品における鍵概念がふんだんに用いられている。BUMPの哲学を分析するうえで、「アリア」は重要なテクストであると僕は考えているのだ。
今回はshortなので、「アリア」の作品論ではなく、本作の歌詞の中で僕が最も美しいと感じたフレーズをご紹介したい。それが、これだ。
僕らの間にはさよならが/出会った時から育っていた
作詞・作曲:藤原基央
なんという文才。見事なレトリックである。でも、これはよく考えてみれば当たり前の事実でもあるのだ。
出会わなければ別れることはない。始めなければ終わることはない。貰わなければ無くす事もない(@「飴玉の唄」)。いずれ失うことの恐怖を先取りしてしまい、その価値ある何かに手を伸ばすことを躊躇してしまう。これは、BUMPが繰り返し歌ってきた普遍的な人間心理だ。
「君」と心を通わせること、豊かな関係性を築いていくこと。「アリア」はその作業を「さよならを育てること」と表現する。関係性の終わりが「さよなら」なのではない。「さよなら」は関係性が開始されるまさにその瞬間に、既に生成されていた。
そしてここから、逆説的な事態が生じることになる。 「僕」と「君」は出会い、二人の間に「さよなら」が生まれた。そして「僕」と「君」は「さよなら」を「共に」育んできた。そして二人の間に別れが訪れるとき、ついに「さよなら」が完成する――のではない。そのとき、「さよなら」は死ななくてはならないのだ。
「さよなら」の在る場所は「僕」の中でも「君」の中でもない。それは彼らの関係性の中に、相互に行き交う無数の言葉や感情の織りなす時間のうちに存する。だとすれば、彼らに別離が訪れるその瞬間、「さよなら」はその存在条件を失い、消えてしまう。
おそらく、「さよなら」の喪失を通じて、僕らは初めて「さよなら」の意味を知るのだろう。あらゆるメッセージは喪失という形でやってくる。「僕」らは「さよなら」が持っていってしまったものを惜しみ、「さよなら」に与えてやれなかったものを悔い、そして「さよなら」を「君」と共に育てた時間を愛おしく思う。
これは「アリア」に秘められた哲学のほんの一部にすぎない。たったひとつの短いフレーズで、それを受け取った者に限りない学びを与えてくれる。そのようなアーティストに出会えたことは僕の人生にとって多大な幸福である。
最後に、歌詞ではなくMVについて少しだけ。
この映像はあのチームラボが演出を手掛けたことでも知られている。BUMPがこんなにも光に溢れた美麗な(映える)MVを作るとは、僕にはとても意外だった。闇から光へ。そのようなシフトが、7th『RAY』あたりから徐々に進行していった、というのが僕の感覚だが、同じように感じている方も多いように思う。
読んでくれてどうもありがとう。(E.V)