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自分を大事にする③

私は特に何かを意識した訳ではないが、博愛的な価値観の人間だ。

主義、主義者ではない。
自覚したのはかなり前だ。だけどこれも、他者に理解されないと思って誰かに言ってみようと思わなかったことだ。

顔見知り、知り合い、友達とか、どのくらい仲良くなったかによっての差はあるかと思うが、平等な情を持っている。

顔見知りくらいの人にかける情、20%
知り合いくらいの人にかける情、30%
友達にかける情、35%
みたいな感じ。
区分ごとに平等で、性別で分けることもない。

誰にとっても良い人でありたい、とは思ったことはない。合わないな、嫌いだなと思う人もいる。そういう人とも礼儀的な挨拶や会話(雑談)をすることもあるから、傷付け合わないために凄く少ないけど情はかける。

八方美人だと言われたこともある。
私は傷付いたけど、そう見えるなと納得した。
だから「普通はこんな風にしないんだ」とも思い、周囲の子たちに紛れるようにした。
具体的には、意識をして特定の友達と行動するようにし、束縛に応えた。周囲の子たちは嬉しそうにしたが、私はそうじゃなかったと思う。

本来の私自身では、友達すら出来なかった。
社会生活、集団生活において、受け入れられないことを知った。
だが、いつでも一緒にいることを強要しない、束縛もしない子たちとも、たまに話したりするようになると少し息がしやすくなった。

しかし私の情のかけ方は上記の通りなので、クラスメイトとして、みんな平等に思っていたりして苦しかった。


性別を意識したり、恋愛の話が増えてきた時、当初は理解出来なかった。
性別を意識して仲良くしたことはない。
これがそもそも、周囲と違うらしいことに気がついた。
誰かの好きな相手と、今まで通り友達してると面倒事になる。付き合い始めたら、余計に面倒になる。そう判断して、周囲と同じ価値観でいる風にしていた。
それが独占欲や嫉妬、束縛の類であることは、後々分かった。多分、私には希薄なものであることも理解した。


自分が誰かに恋愛的な好意を持たれた時、他の人へ情をかけることを嫌がられた。
世間一般的には唯一、特別だと認識する2人の関係が、付き合うことだと理解している。
だから本来の私自身では、関係維持が難しい。
何人かと付き合って分かったことは、やっぱり「あなただけ」ということがない。
付き合っている相手と同等又はそれ以上に情をかける人もいるし、情をかけることは特別なことでない。平等に考えていた。
世間一般的な付き合い(行動や言動)を求められることに、苦痛を感じた。


博愛的な視点では、こう言ったことがあった。
先のnoteで書いているように、アロマンティックである自覚があるのも矛盾しないと思う。
平等に情をかけているが故に、恋愛の定義から考えると、私自身に恋愛的な思考が介在していたとは言い難いと思う。


またここまで頑なに情と表現していた理由は、私にとっての愛情は1種類ではないからだ。

あまり積極的に話そうとは思っていないが、私自身の愛情についての考え方は、大事にしていきたいと思う。

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