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ウケなくても続けた、オリジナリティを求めて
頑張って記事を書いても思い通りにウケるとは限りません。
この4年間、毎週記事を書き続け自分の向かうべき方向を模索してきました。
以前、記事が全然ウケなかったときに、ふとこんな記事を書きました。
驚いたことにこの記事が、一部の例外を除いて最大のスキを集めています※。
そんなに文字数もない記事ですがきっと共感してくれた人が多かったのでしょう。
この記事が100スキを超えたこともあり、今回はそのいったんのアンサーとして記事を書いてみました。
続けた先に見えてきた自分らしさ=オリジナリティ
自分のオリジナリティとは何なのか?
noteに限らず人生において、自分が出せる価値って何なんだろうな?と考えてしまいます。おそらく同じような考えを持つ人もいることでしょう。
自分自身の得意なことや好きなことというのは年齢を重ねるうちに自覚できてきますよね。ただ、それ自体をこのnoteの載せられているか?というと、どうだかわかりません。
そんな中でこのnoteのオリジナリティを考えると、まさしく自分の興味関心を公開する場だと思います。
人間性とは少し違いますが、このnoteは私の関心ごとを反映したコンテンツと言えるわけです。
今は、とにかく自分の好きなことや考えたことをアウトプットしています。その中で興味を持ってくれた方や共感してくれた方からコメントを頂くこともあります。とても嬉しいです。
私は変わり者なのかもしれませんが、意味わからないこと(予測不能なこと)が好きです。いつも戦略的に私生活を送っているのに、なぜか予測不能なことにワクワクします。
これはある種、誤配と呼ばれるものに関心があるのかもしれません。ゲンロン戦記という書籍に登場する誤配とは、何かの取り組みによって起きる予期していない事態です。ここではいい意味で使ってます。
実際にnoteの記事を書いていると予期していないことに日々直面します。自分が面白いと思った論文紹介があまりウケなかったり、逆にウケないだろうなと思っていた記事が意外と読まれたり、私の内的な思考からは全く予想できないことが起きています。
私はこの予期せぬイベントをいろんな意味で楽しんでいます。はじめた頃は見向きもされなかったこのnoteも今では多くの人に読んでもらえ、予期せぬイベントは多岐にわたります。
その中で私の関心ごとも少しずつ移り変わっていき、またnoteに反映される。そして予期せぬ良い誤配が生じて、私の中にフィードバックされます。
このサイクルを繰り返すのが、私のnoteのオリジナリティとなっていくということなのではないでしょうか。
隣の芝はずっと青いけど、自分の芝も青く見えてくる
隣の芝は青いといいます。
人生においていつもそのように感じると思います。
ただ、noteにおいては自分の芝も少し青くなってきた、と最近は思います。
それは、これまでの積み上げにより、自分らしさを少しずつ出せるようになったからかもしれません。
noteを始めた頃、どうしたら読んでもらえるか悩んでいましたが、今は自分なりの記事を書こうと思えるようになりました。まだまだ分かりにくい記事も多いので、そこは努力していかなければなりませんが。
自分の芝が青く見えてきたのか、単に自由になったのかと言われるとわかりませんが、少なくとも前よりは気負うことなく活動が続けられているのかなと思います。
芝は突然枯れるかもしれない
noteのみならずあらゆるプラットフォームや浅いつながりは、ある日突然消えてなくなるかもしれません。YoutubeやTwitter(X)でも急なアカウント凍結などがあるように、はかなく消え去る可能性も否めません。
しかし、これまでの経験は私の中に強く残っています。はじめは数か月続けば良いと思っていたnote投稿の活動もすでに4年が経過し、少なくとも私の人生の1ページになっています。
さらに、これまで投稿してきた記事はストックコンテンツとしての価値を持ちます。将来活動の領域が変わったとしても活かしていこうと思います。
最後に
自分らしさ=自分のオリジナリティ、というのは自分でもわかりにくいものです。
こうやって記事にしてみたはいいものの、この記事自体まったくウケないということも考えられます。
しかし、それも含めて私の活動と考えれば良いのかなと思えるようになりました。
読者の方に楽しんでもらえるような記事を目指しながらも、自分なりの気持ちと表現で継続していければいいなと思います。
※例外:固定記事やnote公式によるおすすめ記事選出