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Rock|ザ・ローリング・ストーンズ《レット・イット・ブリード》

日曜のテーマRockの第回6目。既存の価値観を破壊するRockという表現方法がもつ本来の役割を、今一度理解することで、文化はどう作られていくのかを考えていきたいと思っています。

今週は、大好きなバンド、ザ・ローリング・ストーンズの《レット・イット・ブリード》です。

ストーンズのベストアルバムは、僕にとっては《レット・イット・ブリード》のひとつ前のスタジオアルバム《ベガーズ・バンケット》なのですが、当時の社会的情勢をもろに受けた内容が平時とまた違った聞こえ方がしたので、今回紹介したいと思います。

ベトナム戦争の不穏が反映されたアルバム

当時の社会情勢というのは、「ベトナム戦争」です。1965年にアメリカが軍事介入し、ベトナム戦の南北統一だけでなく、米ソの代理戦争にまで発展し、終わりの見えない泥沼状態になっていました。

1969年にリリースされた《レット・イット・ブリード》は、まさにその最中、ロサンゼルスとロンドンでレコーディングされた作品です。

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全9曲の作品中には、「シェルター」や「戦争」、「」、「モンキーマン(麻薬常習者)」といった、終末の空気を感じさせる言葉がならぶ。とくにオープニングナンバーの「ギミー・シェルター」は、「戦火が俺たちの通りにまで押し寄せてきた」「シェルターを探さなければ」と混乱する世界のなかで、「キスしてくれ」と叫ぶ男と女のデュエットソングです。

洪水が俺の命を脅かす くれ、シェルターをくれ 俺は消されちまう
戦争が 子どもよ 始まりそうだ 始まりそうだ 始まりそうだ
俺はお前を愛そう お前にキスをする キスをする キスをする

レコード発売当時のA面の最終曲「レット・イット・ブリード」は、軽快なカントリーフォーク風のナンバーながら「俺を血だらけにしてくれ」と男が叫んでいます。

人は誰でも血を流してもいい人が必要だ
そう そんな奴がほしければ 俺の体中を血だらけにしてもいい

気分がいい ごきげんだ ごきげんだ
俺を血だらけにしてくれ さあ
すべてを血だらけに すべてを血だらけに
俺に馬乗りになってもいい

毎日のように映し出されたという、戦火の様子を見ながら、バンドのソングライティングを担うヴォーカルのミック・ジャガーとギターのキース・リチャーズは、社会のひずみ、闇をまなましく描き続けます。

6分53秒の大作「ミッドナイト・ランブラー」では、放浪者やギャンブラーが次第に狂気に向かう心情を、BPM(Beats Per Minute、曲のテンポ)を変えながら、ブルース・オペラのように展開していく。ミック・ジャガーのねっちこい歌唱法が、振るっても追いかけてくる絶望や恐怖、運命のようなものをより強調しています。

1962年から1964年にかけて起こったボストン絞殺魔事件をヒントにした曲というのも納得できます。

B面最後、そしてアルバムでも最後の曲になる「無常の世界」(原題:ou Can't Always Get What You Want)では、「ほしい時にかぎって、手に入らない だけども努力すれば、時には見つけられるかもしれない」と、結論や教訓といったことはなく、ひたすら「どうにもなるし、どうにもならない」と役にもなにも立たないことを、軽快なシャフルビートで繰り返し歌い続けています。

ベトナム戦争という世界共通の苦しみや絶望を見ながらも、正常性バイアスで見つめるのではなく、限りなく黒く、絶望的で、暴力性をもった時代の側面を、ストーンズがRockという表現媒体を使って世に問いかけたのが《レット・イット・ブリード》であると、僕は思っています。

命の価値は、医学と経済だけで測られるものか

ベトナム戦争とコロナ禍の状況を比べることは、無意味なことではありますが、人間が絶望や不安、危機に直面したときに、前を向くようなポジティブな表現を続けることは必要なことではありますが、正しいことや善、集団だけで人間や社会は構成されているわけではありません。

社会には過ちや悪、マイノリティな人々がいて、さらにそこから脱落する人もいる。そして、命の危機や社会不安におびえるなかでも、命の使い方を自分のもとに置きたいと願う人もいます。

そうした人間たちの本質をこんなに勇気をもって赤裸々に描くということができた当時のRockミュージックは、奇跡的な表現方法で、社会的な立ち位置だったんだと、今になってきづかされます。

今、たとえば、キャバレーやナイトクラブ、風俗店の実情や、そこからこぼれ落ちた人々、犯罪者の真理を表現できる表現媒体があるかと考えたときに、Twitterくらいしか思い浮かばない。

僕には、「コロナから命を守る」という医学的な尺度や、「お金が払えずに野垂れ死にたくない」という経済的な尺度でしか、コロナ禍を測れないというので果たして本当にいいのだろうか、とこのところ疑問が強く残っている。

人間は、医学や経済の価値だけで生きてきたのでしょうか。もちろん、新型コロナウィルスが、感染症であるため自分が菌をうつすことがある危険はとてもよく理解しているし、現在指針になっているあう人の8割を減らしましょう、ということもわかっている。

医学や経済の言い分もわかるし、いまはそれが最優先でいいと思うけど、人間の命の価値を、その2つだけに決められるのではなく、3番目や4番目、それ以降の優先順位で測られる命の価値も必ずあるはずだと思っています。

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