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Food|「おいしさの破壊」をすすめることはできるのか

昨日に続いて、8月20、27日に開催したポップアップレストラン「無機質なモノとの奇妙な一致」について。今日は、イベントを企画したディレクターの立場で、僕がこのレストランを通してやりたかったことを、書いてみます。

「美の破壊」を目指した現代アート

食はアートといわれますが、本当なのでしょうか?

日本人のアート感の根底にあるものは、西洋美術、とりわけ印象派に代表される近代絵画です。じっさいに2011年から2019年に日本で開かれた西洋絵画の展覧会の入場者数で60万人以上を集めた展覧会を調べてみると印象派の展覧会が上位にランクインしています。

1位 マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展 763,512人 2015年①
2位 マウリッツハイス美術館展 758,266人 2012年①
3位 オルセー美術館展 印象派の誕生  696,422人 2014年①
4位 フェルメール展 683,485人 2019年①
5位 ルノワール展 667,897人 2016年①
6位 ムンク展 669,846人 2019年②
7位 ミュシャ展 657,350人 2017年①
8位 レアンドロ・エルリッヒ展 614,411人 2018年①
※太字が印象派の展覧会、開催年の後のマル数字はその年の入場者数総合順位

印象派の美意識とは何か。かなり大雑把にいうと、目の前の美しい瞬間をできるかぎり見えたまま描写し、風景や空間を再現することを目指した、ということができると思います。

整然と均整がとれた絵画を美しい好むのが日本人の特徴なんですね。

しかし印象派は、今から150年以上前に、同時代の人たちに向けて描かれたもの。そして彼らの登場でアートの世界は歩みを止めたわけではなく、むしろそのあとに次々とアーティストが生まれ続け、美の価値を書き換え続けています。

たとえば次の作品は、1917年、マルセル・デュシャンというアーティストが制作した《》という作品です。

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マルセル・デュシャン《
1917年(1964年レプリカ) テイト・モダン

男性用の便器を横に倒して、サインを入れただけの作品が果たしてアートなのか。そんな議論が発表当時に巻き起こりました。この問題作を現代アートの出発点にあげる人も多いです。

なぜ、この作品が問題作なのか。

均整がとれた人体や、人間の世界との調和がとれた風景こそを「」としていた西洋美術の価値観を正面から疑問符を突き付けたからです。

もちろん、クールベの《オルナンの埋葬》やマネの《オランピア》のように「美の破壊」を目指した画家たちは過去にもいました。

しかし、クールベもマネもコンテクストをずらしてはいますが、根本的に写実、つまり「絵画は現実の世界を再現する美の価値」からは解き放たられいません。

森羅万象を「」という価値だけで表現できるのか

たとえば、ゴーガンがヨーロッパ文明に疑問を持ちタヒチに渡って、文明以前の原始の姿に新しい美の価値を求めたり、ピカソがアフリカの原始美術の仮面からインスパイアされて《アヴィニヨンの娘たち》を制作したりして、ヨーロッパの価値観にない美の価値基準をアートに取り入れていきながら、「現実の世界を再現する」という呪縛から少しづつ逃れていきます。

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上はピカソが見たとされるアフリカの仮面です。《アヴィニヨンの娘たち》の右上の女性の顔に酷似していることが長年指摘されています。この絵を見て「美しい」と感じる人は少ないと思います。もしかしたら、不気味、気色悪い、そう言ったネガディブな感情を持つ方もいるでしょう。

しかしその不気味は、アフリカでそうであったように、ある側面で形どられるものになるのです。

ここで近代美術から現代美術の橋渡しをしたアーティストたちは、自分たちの美意識は、世界で見たらごく一部のものでしかなく、ヨーロッパの都合で造られた基準であるという自己矛盾に気付いてしまったのだと思います。

それ以来、現代アートは、基本的には、「それまであった美の価値をどう破壊し、新しく創造していくか」を目指していくことになります。

わざわざ醜悪なものを制作するなんて悪趣味だ」と思う人もいるかもしれませんが、僕には、「世界の美しいものしか見たくない」という人の方が気持ち悪く感じます。美しいものだけで世界はできているのでしょうか。そして、世界を「美しいもの」と「そうでないもの」に分ける必要があるのか? その仕分けは誰が行うのでしょうか? 世界の森羅万象を「」という価値基準だけで判別してしまっていいのでしょうか?

現代アートのアーティストたちは、いち早くその矛盾に気づき、社会が都合よく覆い隠そうとしている、ある種の自己矛盾に光を当て、人類に問いかけようとする告発者なのです。

ここまで「美の破壊と創造」を繰りかえしているからこそ、アートが人類を変える力があるわけです。

「おいしい」を破壊することができるのか

前置きが長くなってしまいました。

たくさんの人が「食はアートだ」と言います。レストランでの食事に人生を変えられた僕にとって、それは真実だと思っています。

では、食にとってのアートの「」は何でしょうか。僕は、「おいしい」でないかと思っています。

気づかれた方もいると思いますが、食の世界にはまだアートが近代から現代に向かったような「おいしさの破壊」(美の破壊)が、起きていません。つまり封建的な社会で生まれた価値観だけを神話のように崇拝しているのです。

食は、おいしいくなければいけない」というのはその通りで、全く異論はありません。「おいしいを破壊する必要なんてない」、その通りです。

しかしそれでは、「食はアートになる必要はない」といっている、食には人類を変える力がないといっているのと同じだと僕は思っています。

僕は食は、アートになる力を持っていると思います。

それならアートがしてきたように、過去に決められた価値観を引きずるのではなく、もっと多様な価値に根ざしながら「おいしさ」を全面的に否定し、「新しいおいしさの価値」を見出すことが必要なのではないか。

そして、その「新しいおいしさの価値」によって光が当たるのは、現代の諸問題、食糧危機や海の資源の激減、地球の温暖化、といったことではないでしょうか。

ピカソやデュシャンが、醜悪なものに美を見出したように、食にとっての美である「おいしさ」をゆさぶることで、人間は見えなかったものが見えてくる、感じられなかったことが感じられるようになるのです。

味覚は過去の記憶との関係で相乗効果が起こる

そうした「おいしさ」への挑戦(破壊)を目指したのが「無機質なモノとの奇妙な一致」です。

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食べる人は、料理名も、食材名も、あらゆる情報がないなか、たった1枚の絵だけを頼りに、食べ物を口に運びます。きっとこのときに「得体のしれないものを口に運ぶ恐怖」と「口に含んだ時に、きちんと味のバランスがある」ことにほっとすると思います。

そして、味を何か別の記憶のなかにある味と紐づけようとしながら、どんな素材が使われているのかを予想します。そのときにきっと、「味覚は過去の記憶の相対評価」であることに気づくはずです。

さらに、複雑な味の組み合わせから、なぜこの異なる味を組み合わせているのか?という料理人、竹矢匠吾さんの内面を探ろうとします。

イベントでは、1皿づつ料理を食べ終わってから各テーブルを匠吾さんがまわって、料理の意図を説明していきます。

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種明かしによって「予想が当たっていたり」「まったく予想と違っていたり」することで、自分と料理人の関係が作られていくことにもなります。

これを繰り返すことで、料理は他者を理解する情報媒体、つまり料理がコミュニケーションツールの役を果たすことに気づくでしょう。

メニューを写真に変えただけで、普段食べている食事がまったく異なる体験を得ることで、普段の食事に対する見方がかわってくるはずです。

記憶を呼び起こす食体験が「新しいおいしさ」になる

新型コロナウイルスのパンデミックによって、レストランの使い方が大きくかわりました。それによって食材や演出に金額がついていたビフォーコロナの価値観は全く変わっていくと、僕は思っています。

アフターコロナ/ウィズコロナの世界では、どんなにお金を積んでも、どんなに頼み込んでも得られないものを求めるようになってくると思います。

レストランが物質を超えた価値をどう提供していくか。

無機質なモノとの奇妙な一致」をやって確信したんですが、どれだけ食べた人の人生の記憶を呼び起こせるかってことじゃないかと思っています。しかも風景のような映像的記憶ではなく、恋慕、後悔、疑念、憧景といったその人の感情の記憶。

そこには、たとえば今回写真と料理という小さな繋がりだけにしたように、食べた人が感じられるような余白をたくさん用意することなのではないか。しかし、それがただ小さな繋がりだけなのではなく、料理は料理できちんと流れがあって、写真は写真できちんと流れがある。その間をお客様が埋めていく。

料理と写真では間の距離は長いかもしれないですが、たとえば色と料理というように近いものにしていったもいいかもしれません。

そして、お客様が間を埋めるには、それまでの人生の記憶が必要になります。

その記憶を呼び起こすような食体験を、「無機質なモノとの奇妙な一致」で僕はやってみたかったのです。

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All photos by Ryo Ishigami

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明日は今日お休みした「Human」を。

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