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Art|フェルメール《真珠の耳飾りの少女》 名画を誰が決めるのか
17世紀オランダの巨匠といえば、20年前まではレンブラントでした。
しかし、21世紀に入ってレンブラントより26歳下のフェルメールに脚光が当たり出します。日本では、大阪市立美術館で2000年に開催された「フェルメール展」がブレイクのきっかけだったといえます。
この展覧会には、フェルメール作品5点が来日。なかでも、「青いターバンの少女」の別名でも知られる《真珠の耳飾りの少女》が5点に含まれていたことで、大きなインパクトを与えました。
ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》
1665年頃 マウリッツハイス美術館
真っ黒な背景のなかで、不意に呼び止められて振り向いたか一瞬をとらえたスナップショット。そんな印象があるこの作品は、フェルメールで最も知られている作品ではないでしょうか。
しかしながら、僕はこの絵が、フェルメールの最高傑作だとは思いません。時代の価値観が変わって、現代の観る目(グラビア写真を見慣れた)でみたときには、私たちの心を打つ作品であると思いますが、それは偶然の産物であって、必ずしもフェルメールが意図したものではなかったように僕は思ってます。
《牛乳を注ぐ女》の呪縛
フェルメールの真の傑作といえば、やはり僕は《牛乳を注ぐ女》だと思っています。
ヨハネス・フェルメール《牛乳を注ぐ女》
1660年頃 アムステルダム国立美術館
これは、フェルメールが何を描こうとしたのか、ということをどう捉えるかによると思います。そういった点で僕は、フェルメールは「絵画という静止した世界の中に永遠の時間の流れを描こうとした画家である」と考えています。
その点で《牛乳を注ぐ女》は、永遠に壺の中から牛乳が流れ続けるような迫真の描写が静止した絵の中に時間を与えている。フェルメールはこの時、おそらく28歳ころ。肉体的な絶頂がこの作品を可能にしたのではないかと思えるほど、堅牢な構図の中に、1箇所だけ時間が流れている。それはまるで、マーライオンの口から吹き出す水だったり、小便小僧の水のおしっこのようなものだ。
フェルメールの最高傑作と呼ぶにふさわしいこの作品を最後に、その後15年ほどの画家人生を通じて、この絵のような作品品を描き残せなかった。そう僕は思っている。
もちろん、《真珠の耳飾りの少女》も越えられなかった作品の一つだと思うし、それ以外にも《手紙を読む青衣の女》や《真珠の首飾りの少女》《紳士とワインを飲む女(ワイングラス)》といった作品もフェルメールの代表作ではあると思います。大胆なトリミングによるスナップショット的な風俗画は、フェルメールならではだと思いますが、同時代のオランダ絵画の範疇の中にあると言っていい(もちろんそのなかでも最高峰だとは思いますが)。
ヨハネス・フェルメール《手紙を読む青衣の女》
1663年頃 アムステルダム国立美術館
ヨハネス・フェルメール《真珠の首飾りの少女》
1663~65年 ベルリン国立美術館
ヨハネス・フェルメール《紳士とワインを飲む女(ワイングラス)》
1658〜60年 ベルリン国立美術館
これらは、ほぼ5年以内に描かれたものですが、それらと見比べて《牛乳を注ぐ女》をみれば見るほど、この作品がフェルメールにとって異次元の作品であることに痛感させられます。《牛乳を注ぐ女》での成功にひっぱられているような、そんな気さえします。
実験思考で描かれた《真珠の耳飾りの少女》
ここまで書いていると、まるで《牛乳を注ぐ女》の記事のようなので、《真珠の耳飾りの少女》の話に戻ります。
フェルメールの作品のなかで特異的な位置にある《牛乳を注ぐ女》と同様に、そのおよそ5年後に製作された《真珠の耳飾りの少女》もまた、フェルメール作品のなかで特異的な位置にある作品です。
どういった点で特異的かというと、フェルメールの作品には、必ず描かれている人が置かれている状況が示されています。たとえば、部屋の中なのか外なのか。その部屋は、どんな調度品で飾られているのか。主となる人物の他に誰がいて、その人は主人公とどんな関係と考えられるのか。
前後に物語が続いているような、時間の延長線上に作品があります。
しかし、《真珠の耳飾りの少女》の背景は真っ黒。この少女がなぜここにいるのかが全くわかりません。《牛乳を注ぐ女》っぽさがありません。
《真珠の耳飾りの少女》は、注文主から特定の人物をモデルにするように依頼される肖像画とは異なり、特定の人物を描いたわけではない人物画でトローニーと呼ばれるジャンルの絵です。
肖像画は、モデルになった人の情報を絵の中にたくさん込める、たとえば貿易商だったら、背面の壁に運搬船をイメージさせる海洋画を描いたり、犬を描くことでその人物の従順さを重ねたりします。しかし、トローニーに描かれている人物は空想(もちろん実際の少女を写しているはずですが)で、描いている人物のキャラクターや個性を描こうとするものではありません。あくまで外面的な模写にすぎません。
このトローニーの作品を《真珠の耳飾りの少女》の他にもう1枚フェルメールは描いていますが、それはあくまで同時代の女性の像でした。
ヨハネス・フェルメール《少女》
1665~67年 メトロポリタン美術館
ここにもう一つの特異性があります。なぜ青いターバンを巻いているのか。ターバンは当時、インドからもたらされた異国のファッション。背景に情報を描きこまずに、その人物だけを描くトローニーのなかで、意味が強いターバンをなぜ付けたのか。そういった謎はあるのですが、このトローニーの作品を見比べてみるとわかるのですが、なんというか、明らかに瞬間を捉える目が違うようです。
トローニーとは、頭を意味する言葉を由来にしています。そのため頭部の周作、つまり実験や研究の目的で描かれています。
《真珠の耳飾りの少女》があまりに特異的に感じるのは、この実験思考のもと描かれているからではないかと、僕自身は分析をしています。
その実験思考が、現代の美的感覚に偶然リンクしたことで、この作品の評価が高くなったのではないか。だとすれば、また100年もたてば、美的感覚にも変化が当然生まれるので、この評価はまた変わってくるかもしれません。その場合でも、《牛乳を注ぐ女》は最高傑作で変わりはないと思います。
じっさいに1881年のオークションで《真珠の耳飾りの少女》は、わずか2ギルダー30セント(およそ1万円)で購入されていることがわかっています。フェルメール自体の他の作品の競売金額と比べると明らかに低い評価で売買されていることも、時代による作品の評価の変遷を物語っています。
名画や名作は、誰がどう評価するのか。
市場の価格はあくまでその評価の一側面でしかありませんが、審美眼の本質を《真珠の耳飾りの少女》は、私たちにつきつけているようにも感じます。
《真珠の耳飾りの少女》は、あなたにとって名画でありますか?
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明日のテーマは「Food」です。いまこのタイミングでレストランを出すとしたら、どんなことをすべきか。「持続可能なレストランを目指すために、丁寧な対話型のレストランが必要なのではないか」という仮説をもって考えてみたいと思います。
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