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Food|もう、人生を変える体験なんてないと思ってた

あなにとって人生を変える体験って、どんなことでしょうか?

ある人物の出会いであったり、映画や音楽などを見聞きしたことだったり、圧倒的な自然風景を見たり、異文化に触れたり、さまざまなきっかけがあると思います。

そういったきっかけはなんであれ、「人生を変える体験」とは、「自分自身にない価値観を発見すること」ではないでしょうか。

もう少し、自分自身に引き寄せて考えてみると、「自分自身にない価値観」とはなんだろうと考えたとき、僕の場合は、自分のなかにある固定概念や思い込み、勝手に自分に作った無意味なルールのようなものに気づかされた時です。

以前、人生を変えるレストラン体験があったことを書いたことがあります。

このとき3つの体験を書いていますが、それからなかなか人生を変えるような体験がなく、もう年齢的にも、知ってしまったことが多くなってしまったのかもしれないなぁと勝手に考えていたのですが、つい先日素晴らしい食体験を得たのです。

虎ノ門にある「」というレストランです。紹介制のレストランということで、お誘いをうけていってきました。

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もう、エラそうにいってしまうのですが、僕は、コースが2万5000円以上するのに、従業員が3、4名で客席が10席以下の店があまりお店が好きではありません。なぜなら、そういったお店の場合は、ほとんどがただ高級食材、稀少な食材を出しているだけだからです。

もちろん、高級で稀少な食材を、最適な調理法をもとに料理されるお店もたくさんあるので、上のような条件でもすばらしいお店はあります。

ただ、残念ながら「高いだけのお店」が多いと僕はどうしても感じてしまって、行きたいと思わなくなっていました。しかし、今回は料理人の大野尚斗さんのお誘いとあって、それならと!思ったわけです。

「おいしい」の一歩手前で抑える力

食事は、それまでの人生の経験のなかで、多くの情報を処理して「おいしさ」を判断していきます。もちろん、生命を長らえるために、体を動かすエネルギーになる炭水化物や糖分、脂質といったものを脳が「おいしい」と条件反射的に判断することはあります。

それでも、極端にいえば目隠しをして料理を食べることがとても恐怖なように、これまでにある経験になぞらえながら、「あのコースの流れにここまで似ているな」とか、「この食材の組み合わせはあの時のものだ」などを意識・無意識を両方で食べています。

ですので、食べれば食べるほどその情報が蓄積されて、料理に対峙する引き出しの数がふえているので、分析・批評ができるようになります。

そして以下のようなことをうまくやればそこそこ行けることに気づかされるのです。

①高級食材ならべておけばいい
②旨味を重ねて、動物性の脂を組み合わせれば「おいしい」は作れる
③高級店のセオリーをなぞれば価格は上げられる

しかし今回の「」は、そういったものとは全く異なるもので、素晴らしい体験をしました。

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1皿目は、その日につかう魚のアラなどからとったスープです。最初にこうした暖かい出汁やお茶が出てくること自体はそれほど珍しくありません。その場合、けっこうあるのは、香りも味、旨味も淡く、ぼんやりしたもので、舌を慣らすようなものがいいのですが、「」の場合は、ぶわぁっと魚の香り、ともすると生臭さもいっしょになった香りが立ちのぼってきます。

あれ、けっこう荒々しくて旨味がのったスープなのかなと思いながら口に含むのですが、塩をほとんど入れていないからなのかもしれないのですが、塩味のない旨味、つまり味の輪郭がない旨味の強いお茶のようなニュアンスの味に驚かされる。

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2皿目のアワビとカッペリーニ、3皿目は失念、青魚のフリットだったと思います(あまりメモを取らないのですみません)。アワビの強い旨味に、カッペリーニの食感と咀嚼によって生まれる甘味が、素材の良さがでている。フリットもしっかりジャストにおいしいポイントにもってきていて、おいしい。

どちらもすばらしい技術の上に、素材の旨味を前面に出すような料理でおいしい。しかし、一方で「あれ、よくある外国向けのわかりやすい日本料理かな」という思いがよぎります。

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4皿目はアスパラとウニですね。アスパラの青臭さと苦味がウニのねっとりとした旨味ではなく、海の香りに合わせているイメージ。前2皿の重ねた旨味の構造がなくなって、素材に対してのアプローチが変わった印象で「おお」っと、期待が盛り返してきました。

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盛り返してきた期待に、「」のシェフ佐藤さんを入れてきます。「」のスペシャリテで、北海道のバターを使っているとのこと。

クリアーなバターで、パンも乳脂のバランスがいいので、素直においしいパン。しかし、なぜ、このタイミングでスペシャリテで、なおかつ炭水化物と動物性の脂を入れてくるのか。僕の頭のなかはこのあたりからこんがらがってきていた。

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6皿目は、キノコの茶碗蒸し。キノコと卵と塩、水だけで作ったとのこと。説明を聞いた感じでは、シャンピニオンのフランのようなものをイメージしていたのですが、これが予想とまったく別のベクトルでおどろかされました。

過度に旨味を加えることなく、塩味も「おいしい」の一歩手前で抑えている。僕は、キノコを誤解していたみたいです。「キノコのおいしさの限界はこれくらいなんです」と、佐藤シェフが耳打ちでもしてくれているのかもしれません。

キノコ類がもつグアニル酸に、おもに野菜がもつアルギン酸とか、肉や魚がもつグルタミン酸といったうま味成分を加えることで、旨味の相乗効果を簡単に狙えるはずなのに、それをしない。

食材を料理として伝えるにあたって「嘘のない料理」のようなものをこのひと皿で意識されられるようになります。

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続いて「カニクリームコロッケ」。ベタな創作料理屋さんの料理みたいだなぁと思いましたが、この頃にはすでに「」の世界観にどっぷりハマっているので、「いやいや、そうは言うけど、また仕掛けがあるんでしょ?」と期待する自分がいる。

とはいえ、普通においしい「カニクリームコロッケ」だったらがっかりだなぁという一抹の不安もありながら口に運ぶと「ほらやっぱり」っとうならせられる。

カニの味噌もなにもなく、ただただ身だけを食べさせる。そこには、甲殻類独特の香りも、乳脂に頼った旨味の相乗作用もない。きっと、小学生がカニクリームコロッケだと思って食べたら、旨味が弱くてがっかりする。ただ、それでいいのだ。

この頃には、いま自分が「」のコースのどのあたりにいるのがかがわからなくなってきている。

たとえば、フランス料理のコースであれば前菜から魚、肉という流れにあわせて、徐々に旨味を重ね、クライマックスにもっていく。

日本料理には、西洋のようにメイン料理という位置づけはないけども、それでも、刺身と焼き物がくれば、「ああ、そろそろ食事になるなぁ」というのがわかるのですが、それがまったくない。先の見えない道を歩いているような、そんなちょっとした不安もまた、一筋縄ではいかない「」をより演出しているようにも思える。

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岡山の稀少な牛肉「蔓草牛」を使ったハンバーグだという。しかし、繋ぎもなにもないただ表面だけを焼き固めてもので、ハンバーグではない。

僕にはこれはコンソメスープのように感じた。丁寧にとった牛肉のコンソメをいただく料理だと思った。肉の方も、徹底的に嫌な脂を取り除いて、旨味だけをまとめていた。

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ここで食事がくる。酒粕のようなニュアンスがある味噌汁と焼き物(こちらも忘れた)に玉子焼き。画像がないのですが、一升はあろうかという大きな土鍋で炊いたご飯がつきます。

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ごはんのおこげでカレー。しかし、ここもカレーといっても、ここもやっぱり「」で、よくあるレストランの動物性の旨味いっぱい〆カレーではなく、鍋で残った汁をのばして作ったカレーのように、複雑な旨味がスパイスの奥の方に感じさせるものでした。

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まだまだ〆はおわらず。ここでなぜかトマトのパスタ。佐藤シェフいわく「とてもおいしいトマトでしたので、それを味わってもらおうと」いう説明。

それならパスタじゃなくてもいいじゃないの? さては、何か裏のテーマがあるんじゃないか?」、そんな勘繰りをもって質問してみたんですが、答えはあっさり、「パスタの方がいいかなぁって」だって。ここに来て感性かよ!

しかし、「パスタに何か意味があるかも?」と思ってしまうような心の状態になってしまっている時点で「」のコースに心を奪われているわたし。。。

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最後に果物でフィニッシュです。ここはシンプルで、ちょっと拍子抜け。

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お土産にカスレをいただきました。

なんども書いたのですが、「」は「これくらいの旨味と塩味を入れておけばみんなおいしいという」、そういうラインの一歩手前に味を置くことで、「あなたがいつも反射的においしいって思っているものって、誰かがわかりやすく編集して、たんにそれにおどらされているだけですよ。だって、こんなに実際の食材は、これくらいおいしすぎないんですから」というような真実を突き付けられたような体験をさせてもらいました(実際の佐藤シェフは、そんないじわるじゃなくて、優しい方です笑)。

けっこう自分もいろいろなところを食べてきて、ちょっとやそっとじゃ「人生変わる」まで言わないと思っているのですが、「」はそういった自分がかってに作っていた料理に対する思い込み、偏見、固定概念のようなものがまだあることを突き付けられました。もうそんな体験、一生に数回しかできないだろうな、と思っていたのに、本当に幸せです。

佐藤シェフがやっていることは、おそらく「食材をできるだけシンプルに調理して、最大限にその力を引き出す」ということだと思うのですが、その仕事を完遂しようとする過程で、きっとこれまでの人生で見てきたものの見方が随所に範囲されて、いまのようなコースになったのだと思う。

だから、きっと僕が感じたことは、佐藤シェフにとっては意図しなかったことのように思います。

だけどそれでいいのです。一生をかけて打ち込んでいるものには、言葉を超えて訴えるものがあり、それを受けて人は感動するのです。

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明日は「Art」の予定です。

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江六前一郎|Ichiro Erokumae|Food HEROes代表
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