承認欲求以外の引力
秋の花火を見た。わたしは急いでスマホをかざしている。そんな自分に、心底うんざりした。
ガラケーからスマホになって、スマホ越しに物を見ることが増えた。わたしは基本、写真を撮らなくてもいいのだけれど、記録・思い出として残しておきたいときは、とりあえずで撮ってしまうことが多い。
「これじゃ勿体ない」
わたしはスマホから目をはなす。本物が目の前にあるんだから。花火がヒュ〜と上がり、ドンッ!バチバチバチ、と落ちていく。いくつか見て(勿体ないかも)とわたしはまた写真を撮る。そのたびに、自分がいやだなぁと思う。まずは目で楽しむことが大事で贅沢!と思うのに、楽しむ前に写真を撮っているような気がする。わたしは写真家でもないし、写真が趣味なわけでもないのに。
でも、景色はすぐに移り変わるから、「瞬間」を収めないともう二度と出会えないってことも分かっている。
んーなんだろう。
わたしは、嫌悪感があるのかもしれない。
例えば、通りすがりの人が倒れてしまったのに、誰も助けずに動画を撮ることを優先するとか。そういう、目の前のことよりも、スマホを通しての世界・自分を優先させていること。つまりは現実を第一にできていないことに対して、嫌悪感があるのかもしれない。だから、スマホを構えたときにそのことが頭をよぎって、自分も同じことをしているんじゃないか、と考えすぎてしまうのかもしれない。
最近、SNSにあげられたいい話を読んだ。SNSにいるみんなは「感動した」とか「こういうことがあるからSNSはやめられない」とか言っていたけれど、わたしはそう思えなかった。
(いいことだからこそ、ここに載せないで自分の胸にしまっておけばいいのに)
果たして、文章を書いて、noteに載せるわたしは違うのだろうか。ここ数ヶ月、なんで書いているんだろうと考えているわたしは、罪悪感を覚えた。同じような承認欲求が働いているんじゃないだろうか。純粋に、いい話だから伝えたいとか、人も捨てたもんじゃないってことを伝えたい場合もあるだろうが、根っこに承認欲求があると邪推してしまう。
いい話をSNSに載せることと、自分の日々や思い出をnoteに書くこと。みんなに聞いてもらいたい。知ってもらいたい。あわよくば、肯定してほしい。同じような気持ちを持っているんじゃないだろうか。そうだ。同じだ。同じだろう。わたしも人のことは言えない。だから、承認欲求だって、悪いものだとは思いたくない。自分擁護でいい。わたしは怒りだってなんだって、原動力になると思っているから。だから、人のことは追及せず、自分のことだけ追究できたら。
noteに文章を載せるのは、わたしに起きた物事を忘れたくない。覚えていたい。誰かに読んでほしい。そんな気持ちから書いていると思っていたし、今もそうだと思っている。でも、芯の部分はしっくりきていない。根っこの理由がなんなのか分からない。
わたしはなぜ書くのか。なぜ、書くのか。
書いて誰かに読んでもらうことで、この出来事を無いことにはさせないと思うから書くのか。
起きた物事に力があって、気づかぬうちに、わたしに書かせようと働きかけをしているのだろうか。
なぜ書くのか。分からない。わたしは分からないから書いている。今は書くことしか、分からない。