ラベリングの安心感、とその副作用
桜舞い散る季節…!
ラベリングってしたくなるよね
ラベリング(英: labeling)とは英語で「ラベル(レーベル)を貼ること」を指す。
・レッテル貼り - 特殊な事実をもとにしてある人物やある物事の評価を類型的かつ固定的に定めること。
(Wikipedia)
分類して、そのかたまりに名前を付ける、という行為自体は、日常的にやっているもの。荷物を仕分けして片付けたり、書類を区分して整理するもとになるもの。ワークショップの時に書いた付箋をまとまりに分けて名前を付けていくことは仕事として毎日のようにやることでもある。
分類して、かたまりに名前を付けると、コトに対する理解が進む。新たな気づきがある。なるほど!と思う発見の瞬間は脳内麻薬のようで、スッキリして目の前がひらけるかんじがするの。整理整頓ができた喜びのあとに待っているのは、安堵感、安心感。やり切った満足感。
今、安心感を得るためにと「ラベリングする」ことが多いらしいですね。あの人はああいう人、私はこういう人、と分けると理解が進む(気がする)から。人に対してそうしているわけじゃないけど、日常の仕事の中でもやっている行為だからよくわかる。
自分のラベリング体験…!
つい先日、お嬢のピアノの先生から「HSPってあるじゃないですか。私それなんです」という話を聞いて、なんじゃそれ?となったことがあって。帰って調べてみたら、「HSP(Highly Sensitive Person)ハイリー・センシティブ・パーソン」という特性だという。
参考 心療内科解説のHSP
これ私めっちゃあてはまるやん!小さい頃のあれも、これも…日常的なあれも、これも… 何かしらの特性があると自分でも思っていたけど、これが一番しっくりきた。あんまりしっくりきたので、心を奪われてしまうわけです。あぁ、それでこう思うのかも?こう感じてしまうのかも?むさぼるように参考文献を読もうとするわけです。そんで、また、「あぁ、そういうことか!」と思っては、うんうん、と納得する。
ラベリングしようと思ったわけでもないのだけど、たまたまやることになったというわけ。
ラベリングの副作用がやってきた
「あぁ、そういうことか!」という気づきで、しばし快楽に酔いしれる。自分の生きづらい部分や、困っている部分を解説してもらえて、納得もできて。いくつかの書籍やネット記事を読んで、知的好奇心も満たされていく。
ところが、しばらくすると疲れてきた。辛さも、困っている感情も、全部解説してしまおうとする。できない理由、着手できない理由…乗り越える勇気やエネルギーが枯渇するような感覚。発作が起きているかのように、本当に細かなことにも敏感になる、繊細さが助長される。あれもそうか、これもそうか…気になる、気になる!
あぁ、これあかんやつや。心が支配されている。
そもそも、専門家に診断してもらったわけでもないのに。いや、診断してもらったらよいということでもない。仕分けたことがよくないわけじゃない。だって、自分への理解が深まったし、知的好奇心も満たされたんだもん。でも、ネガティブが助長されてきた!
副作用の先に行くには
「あああ、これ副作用や!」、と頭をよぎったのだけど、ちょっと落ち着いて、そんな自分を眺めてみることにした。
そしたらよ。「副作用」という言葉の意味は、悪い方向の影響という意味だけではないのだということに気付いたのです。「主要な作用以外の2次作用」というような意味。ラベリングの主要な作用は、理解が進んだり、安心感を得られること。副作用は、それで見えるものが変わったことによって不安感に襲われるということ。
「感情とうまくつきあっていくことですよ」というアドバイスはとても難しくて、「うまく」ってなに?「つきあっていく」ってなに?とにかく目の前から逃げ出したくなっているのに…しばしパニックになりそうになる。でもまてよ、いままで、「うまくつきあって」はいないかもしれないけど、自分がゴキゲンになる方法ってあるじゃないか?そっちにいくのがいいんじゃないのか?そっちを研究していけばいいんじゃないか?
それというのは、結局、言い尽くされてきた、「できないことにくよくよしないで、良い方を伸ばす」って話だ。
副作用の先に行くために。しばし、そっちを研究してみることにする。
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