「美味しい」の中にある「美しい」の話
たくさんの人が苦しみ、世界が殺伐としている。
誰かの好きな物を守りたいという気持ちと、また違う誰かの好きな物を守りたいという気持ちがぶつかって、どちらもが傷ついて、それを見ている人までもが傷つく。
苦しんでいる人を助けようと知恵を絞る人、足を動かす人、見て見ぬ振りを貫く人、私は何もできないと涙を流す人であふれる。
世界が混沌としている。
でも、今日は。
このエッセイにたどり着いた人が読む文章だけは、美味しい文章にしよう。
夕食前の人が食事を楽しめるように。
眠る前に布団の中でこの文章を読む人が、「やば〜お腹減ってきた。飯テロやめてよ海さん」と笑えるように。
大好きなカルボナーラの話をしよう。
会社勤めだった頃、私には大好きなランチスポットがいくつかありました。
そのうちの一つ。
参道沿いの小洒落たカフェでは、決まってこのカルボナーラとアイスコーヒーを注文します。
ここに来るのは大体、「ムカつくことがあった時のお昼」「気乗りしない日のお昼」「金曜日って実質週末テンションなんだよな〜の日のお昼」など、基本乗り気じゃない私。
少し心がトゲトゲしているので、注文するのはカルボナーラなのです。
生き物で表すなら、見るからにゆるふわ系の色味をしたパスタを前に、きっちり両手を合わせ「いただきます」。
卵はすぐには割りません。
追いチーズも、待った。
まずは端っこの方をくるくるっとして、フォークの先に大きめのこんがりベーコンを刺して一口含みます。
「うまぁぁ」
ここは、天国ですか…
クリームスープパスタに近いカルボナーラでドロドロ系ではないものの、卵がふわっと香るソースが麺にほどよく絡んでいる。
厚切りベーコンの塩気とブラックペッパーがしっかり主張してくるあたりも、大人のランチに寄せている感じがする。
卵を割って、追い粉チーズをする頃には、私の心のトゲトゲの先っぽにカロリーが小さな丸いキャップをはめており、「施術完了!」。
ゆるふわ系に染まっているのでした。
アイスコーヒーを飲みながら、窓の外を眺め、「別にこのまま帰っても大丈夫なんだよな〜」と自分自身に確認する。
本当に良い意味でも悪い意味でも、どうって事ないのだ。
私がいま自分の作ったお弁当があるのに、会社を出てカルボナーラを食べに来たことも、もしこのまま急に早退して新幹線に飛び乗ってどこか知らない街の海を見に行ったとしても、おそらく世界は変わらず、私の生活も変わらない。
私はきっと、気が済むか怖気付いて、会社に適当な理由をつけて「また明日から頑張ります」などと言うだろう。
だからいつだって突然飛び出したり、嫌になって逃げたりしても良いのだ。
どうせ何も変わらないから、怖がらなくて良い。
そういう意味で、あなたは今日も大丈夫だよと言い聞かせていました。
iPhoneで時間を確認すると、昼休憩終了の15分前。
「まぁ、原稿あるしね。画像もちょっと修正あげないとね」。
カラになったまあるいお皿と、少し濡れたグラスを前にきっちり両手を合わせ「ごちそうさまでした」。
よっこらせと立ち上がり、来た時よりもほんの少しだけ足取り軽く会社に戻るのでした。
日常に折り合いをつけて、折衷案を探す時、「美味しい」はよく手を貸してくれます。
何も丁寧に作られた物である必要や、自分で丹精込めて作った物である必要は無いと私は思っていて、良い素材を必ず使わなければいけないとも思っていません。
ただ、生きたご褒美に美味しいを前にニヤッとしたり、美味しいを感じたくてもう少し生きたりすることを私は美しいと思います。
あなたは、今日も本当に美しい。