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白ごはん頬張って生きてく

食事をいつだって幸せに思うのは、なかなか難しい事のように感じます。
例えば寝坊した日の朝ごはんや仕事中の昼食、急いでいて味もろくに感じない。
時間がある日の夕食だって、疲れすぎてかっこんで、さっさと寝てしまいたいと思う時は、甘いも辛いも半分くらいになってしまいます。

だから、先日頬張ったご飯の甘さには驚きました。
母が送ってくれた今年の新米で、精米仕立ての炊き立て白米。
「甘っ!」と思い、向かいに座り同じく頬張るパートナーを見ると、これまた同じように目をまんまるくし、にっこりとしていました。
「美味しいね」
「うん、めっちゃ美味しい」

お米の甘さを、表面のつるっとなめらかな一粒一粒の舌触りを、ふんわりと鼻に抜ける柔らかい香りを、こんなにもふんだんに感じられるほど今わたしは健やかなのだと、その幸せに、静かに感動したのでした。


食事をエネルギーに例えるなら、食卓はガソリンスタンドのようなものでしょうか。
残業で遅くなった帰り道。
交通量も少なく、シンとした道路を一人で運転している時に、ガソリンスタンドが現れそこに誰かがいるのが見えると、不思議とほっとしたのを覚えています。

わたしは知っているのです。
玄関を出るまでの憂鬱。
時計の針は、午後にやたらとゆっくり進むこと。
寝るのだってパワーがいること。
それら全てのためのエネルギー補給を華やかに彩ることは難しいけれど、せめて一口くらいは、思わず「味わってしまう」食事をしたい。


長い長いドライブの束の間の休憩のため、今日も私はキッチンに立ちます。
お米を洗い、スイッチを押す。
野菜を切り、火にかけて、立ち上る湯気が外に吸い込まれてゆくのを見る。

束の間の休憩が温かく、ゆったりとしたものであるようにと魔法をかけながら。
今日も美味しいの幸せが、ここにあることを願いながら。



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