【島日和】金箔のかすてら
毎年の帰省に何をお土産にするかは、選ぶ側の楽しみでもありセンスも問われる。いくら人気だからとはいえ毎年同じものでは味気ない。大阪に住む私は蓬莱の551やりくろーおじさんのチーズケーキを手にいかにも大阪から北でと見せたいところだが、沢山の乗り物を経由するし帰り着くまでに保冷剤を入れても温度維持が難しいのだ。残念。
年末の阪神百貨店や阪急百貨店の地下は非常に混雑しているが、何か立派なものを買いたかった私は足を踏み入れた。黒船のどら焼き、堂島ロール、京都の漬物…どれも捨てがたい。いつも用意するのは家族用、親戚用で合計4つだ。お土産で荷物がかさばるのもよろしくない。4つ同じものを買わないことが鉄則だ。
目に付いたのは金箔がついたかすてら。これは、おばあちゃん喜ぶんじゃないかと思った。かすてらは我らが長崎生まれだ。金箔は正月にお目にかかるにふさわしい。ということで即決。喜ぶ顔が今から思い浮かぶ。
最近は飛行機で福岡まで行くことが増えた。これも社会人歴6年目にしてそこそこの余裕が出来たからだ。そこから高速船で島へ帰る。
私の実家の正月は、シンプルな地鶏出汁のお雑煮(中身は餅、紅白かまぼこ、鶏)とお節料理、お屠蘇から始まる。正月番組を適当に見た後は昼前に家族で島の中でも一番大きな神社にお参りにいって、出店で適当なものを買って母方の祖父と祖母の家に向かう。父方は家の近くなので午前中に挨拶だけ行く。金箔のかすてらも忘れないように31日の夜から玄関ボードへ置いておいた。
ばーちゃんの家は玄関がとても広く、お風呂は無駄に広いため、冬は全体が温まるまで時間がかかり寒い。
2階へと繋がる急な階段は、もう誰も上がることはない。たまに母や叔母が訪れたときに洗濯や布団を干すときに利用しているぐらいだ。
母には悪いが、ばーちゃんの家のお雑煮のほうが美味しいと思うのはなぜだろう。この味を受け継げなかったのが今では悔やまれる。
想定通り、ばあちゃんはお土産の金箔のかすてらを見て非常に喜んだ。甥っ子も珍しかったのだろう、ipadで写真を撮っていった。ばあちゃんはいつものように「神さんにも見せんとね」とお供えしてから翌日食べるのである。だから生ものとかはダメなのである。
どうせなら食べる姿を見たかったがそれは叶わなかった。そしてもう叶うことはない。
その翌月、ばあちゃんはひっそりと息をひきとった。もともと数年前に手術もしており身体は弱っていた。病院通いでウイルスをもらってしまったようだ。前日じいちゃんと夜ご飯を食べたあと、翌朝起きると息をしていなかった、という。
眠ったまま静かに去っていったのだ。家で人を亡くすと警察官の事情聴取があるとこの時初めて知った。気の毒だ。じいちゃんの心も平常ではないのに何時間も聞かれてそれは気が狂っただろう。
急な訃報だった。日曜日に母から連絡があってその日に大阪から帰省をした。つい1か月前は楽しい帰省で、みんなが笑顔だったのに、その1か月後は暗闇に包まれて集まった身内はただただしんとするばかりで、母や叔母から悲しみと一緒に疲弊した顔が見て分かった。忙しいほうが悲しみに浸る時間がないから忙しなく動き回っている。
叔母から「ばあちゃん、あのかすてら本当に喜んでいたよ、何度も言ってたよ。」と聞いた。急におさえていた涙が溢れそうになり鼻がツンとなったところで抑えた。ここで泣いたら何も手につかなくなる。
ばあちゃんが火葬されている間、私は車の中に一人いた。皆は応接間でお茶を飲みなが思い出話をしているだろう。私とばあちゃんはペンフレンドだった。ばあちゃんは文字を書くのもつらくなっているのが最後に届いた手紙の内容でわかった。弱弱しくも、だけどばあちゃんだった。
もうその手紙がくることはないと考えると不思議だ。人は生きながらも死に向かっている。死は平等にあるのは最初から分かっているのに、私たちは人を失うと後悔ばかりだ。もっと孝行をしていれば、もっと沢山話をしていれば。だけど、そういう事はやってもやり尽くせることはない。
いつだって人は欲深い。
もっと喜ぶ顔を見れたらよかった。
また金箔のかすてらを買って帰ろう。今度は私がお供えをして、天国でばあちゃんは独り占めで食べるだろう。