夢うつつの中で待つものは
あれがどう、これがどう。ひとは何かにつけて評価をしたがる。そして、自分が下した評価と違う評価をする人に対して威圧的・反抗的になる。だが時代によって評価基準なんてすぐに反転してしまう。そんな曖昧なこの世界で、さまよっている男がいた。
*
この白い壁に囲まれて久しい。そういえば今日はナースさんが「あなたの友達が来るってよ」なんて言っていた。珍しく動揺した。僕には友達がいないはずだ。誰がそんなことを抜かすのだろう、とんだ夢ではないのか、と。
6か月前の今日、僕は会社のビルの最上階から飛び降りた。理由はのちに説明する。その日はつい最近まで付き合っていた元カノの誕生日であった。その日を選んだのはなにも彼女に復讐したかったからではない。もし仮に僕が今ここで突然死を遂げたとして、その死を弔い悲しんでくれるのはいたとしても彼女しかいないと知っていたからだ。それならばと僕の人生で最高に美しい瞬間を貴女に捧げよう、誰にも邪魔されず一流の芸術品のように散ってやろう。一生に80回ほどある特別な日の一回くらいは、馬鹿でどうしようもない僕にくれてもいいだろう。そしてあわよくば貴女のバースデー史上一番綺麗な景色になればいい、と。だがこれほどまでに基地外のように振る舞っていた不良品の僕にも少しの恐怖はあった。そう、ここまで意気込んでいた割に、最終的に僕は、飛び降りたあとのもしかしたら続いてしまう現実を受け入れる覚悟が出来なかったのだ。このことは、失敗した場合考える暇があるというのはまだ生きたい気持ちがある現れだ、ということも示していた。そしてその後彼女が目にする惨劇に対してきっと彼女が自責の念に駆られその責任の所在が死ぬまで自分にのし掛かる、ということもちゃんと意識が及んでいた。だがそんなこともこの男の美的感覚への好奇心には敵わなかった、飛ぶと決めたら華麗にいくのだと。最悪の場合、己の命の責任ですら他人に尻拭いしてもらえるだろうという最後の最後まで他力本願などうしようもない弱さはこの際決断の後押しとなった。この男の、自殺を試みるというのに死ぬことに全ベットできない排水溝のヘドロのような気持ち悪さは、肉体と精神の深層部まで纏わりついたエゴによる不透明度と同じ濁度のように思われた。
今僕はこのどこを切り取っても真っ白で何もない空間のなかで浮かぶようにして存在している。いや、実際に浮いているのかもしれない。体の感覚はほとんどなく、意識だけがぽっかりと観測されている状態だ。今日来る人間はどんなやつだろうか。知りたくない。だが、今僕は最強の装置をつけているので一度人を認識すれば脳内イメージの中でどんな他人の考えも知ることができる。それは2年前、2053年に開発・企画が完成し製品化された「テレパシーX」という名前のダサさと驚くほど似つかわしくない高機能なシロモノによってだ。このヤバい機械が世に放たれた当初、僕は世間一般のサラリーマンとして特になんの疑問も抱かず平凡な暮らしをしていた。これらは製品化されたもののまだ実験段階で一般人の使用は禁止されていた。ちゃんと使用許可というものが厳格に国によって定められている。現時点でまずは医療方面での認可が進められ、主に植物状態にある人間との意思交流に使われている。ただこうして人類は他人との交信が可能になる装置を事実上開発してしまったのだ。具体的な仕組みは、同じ場所で会話をしなくても、文字としてテキスト化したり絵画や音楽にしなくても、イメージを情報に変えそのまま他人の脳内で転写し復元することができるというもの。知りたい人間の波長帯に合わせれば、今まで知ることのできなかった他人の想念が、全く判断されていない不安定な状態で、流動的に交換されるようになったのだ。実はこの元カノがそれの開発委員として関わっていて、僕はこれを彼女との一連のいざこざを解決する手立ての一つとして、使用することになったのだ。もちろん、秘密裏に。結果として、彼女との関係は悪化するように思われた。僕の隠していた悪事が見つかってしまったからだ。しかしながら事実は異なり、僕がいかに大切に思っており、自分の中の大きなウェイトを占めているかがちゃんと伝わり、それは彼女に関係修復を迫られるほどだった。こうして彼女の中の株が上がる一方、僕は会社の同僚や高校の同級生、幼馴染、そして家族に至るまで出会ってきた全ての人間が自分に対して抱えていた思いも知りたいと思ってしまった。これがいけなかった。パンドラの箱であった。僕は人生で彼女と出会った以外、なにも特筆すべきものがない人生である。そんな男は易々とその箱を開けてしまった。そこで知ることになるのだ。それは今まで自分が感じたと予想していたものと全く異なるイメージを。
“だれも、ぼくのことなんか気にしちゃいなかった。嫌われてすらいなかった。認識すらされていなかったのだ。“
後ろから脳天を銃弾が通過したかのような鈍痛。その後の僕はといえば、唯一の理解者であったと分かった彼女を永遠にすべく、ビルから宙を舞う計画を立て、一通り思考巡らせたのち、すぐさまそれを実行した。その結果、記憶にある次の風景は、白いマスクと特殊な眼鏡をかけたおじさんがなんの気なしに僕の身体をドリルやはさみのようなもので工作しているところであった。わあ、なんだか眩しい。体の中って赤いんだな、臓器ってきれいだな、と、僕は特別その状況に驚かず、ふーんといった態度で見ていた。だがその傍観状態も長くは続かなかった。突如として視界が揺らぎ、あたり一面真っ暗闇になり、徐々に平衡感覚が無くなっていった。その気持ち悪さに意識が飛びかけた次の瞬間、僕は三メートルほど後方上空から自分を見下ろしているのに気がついた。ああ、そうだった。なんだか懐かしさすら感じて、何年も前からこうであったような気さえした。不思議な安堵感に包まれていた。だが、それもつかの間、ひとたび目を閉じて開けると、ぼくは固いベッドに、他の患者と同じように並んで寝かされていた。身体中に激しい痛みと異常なほどの熱を感じる。その上、ありとあらゆる身体の部位に管が刺さっているため、思うように動けない。部屋を見回してみると暗くて湿っぽかった。お見舞いに来ているひともちらほら見かける。あまり事態が把握できず混乱状態のまま、必死に知覚から得た情報を頼りに脳みそをフル回転させていると、見回りに来たピンク色のナース服を着た人が焦った顔をしながら僕のところまで近づいてきた。そしてそこに張り付けられた表情をパラパラ漫画のように動かして僕に何か呼び掛けている。僕はといえば、感情を表現できるのは目の動きのみであり、その呼びかけに応えるという選択肢が取れず、ただ目玉だけをキョロキョロと動かしひたすらベッドと一体になっていた。彼女が何をいっていたのかもよくわからなかった。でもそんなこととどうでもよい。もう半年の話だ。
そう、そこから6か月が経った。未だ僕の身体は一向に動く気配がない。ここのところ、現実と夢の境目がないような、ふわふわとした感覚に包まれながらなんとか命だけはつないでいる。事故前の記憶はあまり定かではないが、僕には元々見舞いに来てくれるような距離感の友達はいないはずだった。だが、今日友達が見舞いに来るというのだ!恐ろしい。彼が誰なのかはまだわからない。試しに「テレパシーX」をつかってみたが、何やら意味のわからない呪文のような言葉を唱え、不気味な薄笑いを浮かべている男が浮かんだ。なにかやってはいけない操作をしてしまったのか、と怖くなった。だがほとんどその感覚が夢なのか現実なのか見分けがつかない。これは夢なのかもしれない。いや、もしかして、事故ったこと自体が夢なのか。こうしてこの男は意識の迷宮に入ってしまったのだ。なにが本当なのか釈然としないまま、絶望することも許されず、今日も来ないはずの何かを宙を見上げながらこうして待ち続けている。
どうも〜