2/22/24(木) 八斗子
今日は少し涼しい。21度。天気予報を見ようと開いた地図で、改めてフィリピンがこんなに近いのか、としみじみ眺める。東京〜鹿児島くらいに見える。いつの間に何を押してしまったのか、iPhoneの画面に風の地図というのが表示されている。台湾の真下にルソン島、そこから放射線状のように島々が広がる。インドネシア、東ティモール、パプア・ニューギニア。同じ風がとりまいているように見える。
昨日は打ち合わせで木柵にある山海へ。師大の前から295のバスに乗る。バスの窓から景色を眺めるのはたのしい。大安森林公園、バスケットボールのスタジアム、浄水場、父を火葬した殯儀館。辛亥のトンネルをくぐる。トンネルを出て、またもうひとつトンネルをくぐり、出ると少し景色がゆっくりしている。木柵。
妙姐に言われたバス停で降り、靴屋、餃子屋とコンビニの角を入る。水回りのいろいろを売る店、洗濯屋、美容室を通り過ぎ、向こうに見えるもこもこした緑は、景美溪の河川敷と山だ。青の看板、対句の春聯が貼られた山海の事務所にたどり着く。
山高獵物多,海深魚蝦美。
福。
書道家でもある孫先生の自筆。「獲物」とか「エビ」とか、普通の春聯にまず見かけることのない字が並んでいて、思わずにんまりしてしまう。漢人の文化への興味から、腹を据えて漢人文化を自分の奥深くまで内在化させるところまで到達し、そこから改めて、原住民族として現代の世界を生きることを実践してきた孫先生の書だ。
春聯というものが私も大好きだ。でも自分で自分の家の入り口に貼ったことはない。貼ってみたいのだけども、門のまわりに飾ることができるほど美しく、かつ縁起も語呂もよい中国語など、私の中をどう探しても出てこないし、ネットで検索して、というのもちょっと違う気がする。漢人の文化はまだまだ私の内面には入っていない。私はむしろ日本人の観光客みたいで、土産ものを物色するみたいに、近所の文房具屋さんへ行って、お手軽なミニ春聯シールを買って、スマホやMacBookにぺたぺたと貼って、ちょっといい気分になっている。今の私にはこれくらいでちょうどいい。
八斗子という地名が気になる。字も、音も、リズムも、私が住んでいる台北のあたりとは全然違う。
台北の中心部の地名は、どれもいかにも中華民国的だ。戦後、中国から台湾へ大量移民してきた人々がつけたのであろう、まるで台湾という島をミニチュア版中国に見立てていくゲームでもするかのように、大きな道路、小さな通り、あちらこちらに中国の各地の都市・場所の名前を付けている。潮州街。溫州街。南京東路。杭州南路。牯嶺。浦城。昆明。重慶。長安。北平。青島。中国人の倫理道徳、中華民国の政治理念キーワードも掲げる。忠孝東路。信義路。仁愛。和平。四維。八德。愛國。三民。民權。自強。莒光。辛亥。まるで中国のパラレルワールドだ。
もちろん、台北が中国のパラレルワールドになる前、ここを植民地支配していた日本人たちも、やはり、この島をパラレル日本に見立てたのだろう。大和町、御成町、幸町、児玉町、入船町、築地町、太平町、乃木町、大正町、老松町、水道町、川端町、新富町、壽町。私が今いるあたりは錦町。よその島を占領しに来て、こんなお座敷みたいな名前をたくさんつけて、まあいいけど、ずいぶん浮かれたもんだな、と、私は日本統治時代の地名を見るたび、どうしてもしらけた気持ちになる。
八斗子という名前には、中華民国でも日本でもない、なんとも違う味わいがある。田舎っぽいといえばそうだけど、田舎っぽいだけじゃなくて、漢字表記の見た目も、ba dou zi という音の感じにも、うっすら格闘した跡のような気配を感じる。この地名の由来には諸説あるようだが、ここに住んでいた原住民ケタガラン族の言葉 pataw から来ているというのが有力らしい。
ケタガラン族はもういないと言われている。消滅したとか、消失したとか、平地に住んでいた彼らは、漢人との通婚などを通して、もう漢人と同化しているということだ。
もういない。
いる、と、いない、は、戦慄するほどに異なる。
どこか他のところにいるので今ここにいない、のではなく、存在、そのものが、ない。あったけど、もうない。
もういなくなった原住民族の話になるたび、荒涼とした気持ちになる。
まるで、ケタガラン族が、民族として失敗し、敗退し、彼らに唯一残されたのは、この世界から退場する一本の道のみ、その道をケタガラン人が、ひとり、ひとり、宇宙の孤独を一歩、一歩に宿して、息絶えるまで、最後、前にも後ろにもその道を歩く人がいなくなって、まだ歩いている最後の一人が、倒れ、その人のもう軽くなった体よりもっと軽い砂ぼこりが、少し立って、それも消えて、何も、何も、なくなったみたいな。
でも実際のところ、ケタガラン族の血は、たくさんの通婚があったのだから、消失してなどいない。それどころかむしろ、通婚を通してあまねく台湾中に、漢人たちがはびこるのと同時に方々へ拡散していってるわけだ。自分のことを漢人だと思っている多くの人の中に、実はケタガラン人の血が入っている。ケタガラン人はもういないどころか、そこら中にいる、とも言える。
マトゥアに連れられみんなで訪ねていった八斗子漁村文物館は、マトゥアより少し年上の感じの男性、許焜山さんが個人で運営している。マトゥアと許さんは、親しそうに台湾語で会話する。二人とも基隆の漁港の町出身で、二人とも基隆の人によくあるように、大学進学をきっかけに基隆を出た。
二人のようにまた基隆に戻ってくる人は少ない。ほとんどの人は一度出たら戻ってこない。
許さんは貿易ビジネスに成功した実業家であり、ヨーロッパなど海外でビジネスマンとして生活した後、生まれ育った八斗子に戻った。地域の歴史を、その記憶を、記録するためだ。地元の年配の漁師とその家族たちに精力的にインタビューをし、それを「東北風」という雑誌の形にまとめ、半年ごとに発行し、ドキュメンタリー映画を制作し、本を出版し、グッズも制作・販売している。その過程で手元に集めてきた資料や実際に漁師や海女たちが使っていた道具は、清の時代・日本統治の時代・中華民国期以降、と八斗子がたどった三つの時代に分けて、この文物館で保管・展示している。
許さんは、八斗子の歴史、八斗子で行われてきた漁業について、文物館のこれまでの歩みについて、マオリの若者たちに英語のパワポを使ってプレゼンをした。彼の情熱が伝わるとても素晴らしいプレゼンだった。
マオリの若者たちは、海辺の町の海の人たちが好きなようだった。自分たちは海洋の民族で、マオリの祖先たちがニュージーランドにやってくるのに乗ってきた舟の名前が、今でも部族名として残っている、と話した。基隆という台湾島の海辺の町に、同じように舟に乗って、マトゥアの祖先や、許さんの祖先も、中国大陸からやってきたのだった。
漁に出る時に、お祈りなど、何か儀式があるか、と質問の手が上がった。
儀式というのは特にないが、あくまで個人ベースで、海での安全や大漁を祈願することはある、でも全員がするわけではない、と許さんは答えた。
儀式が特にない、という答えは、マオリの若者たちには、少し物足りないというか、とても意外だったようだ。許さんは、彼の撮ったドキュメンタリーの中から、船上から海に向かって、漁師が紙のお金を撒くシーンを私たちに見せた。
これは海洋ゴミになるのでは、とマオリの若者たちがざわついた。そうですね、と許さんが残念そうな表情で答える。いわゆるZ世代の彼らは、環境問題にとても敏感だ。八斗子で行われてきた漁業が、持続可能なものであるか、海の豊かさを守るようにコントロールされているか、海洋汚染に配慮されているか、どんどん手が上がり、そのような質問が続く。どの質問の答えも、彼らがにっこり満足できるものではないようだった。
文物館から5分ほど歩くともう海岸だ。季節になると海女たちが海藻をとりにくるという海岸で、春になると一面に藻が生えて緑になるという白っぽい岩の上を、あちらこちらに歩いた。写真を撮ったり、回り込んで向こうのほうまで歩いたり、寝っ転がったり、基隆にこんなに美しい景色があるとは知らなかった。マトゥアは、自分の知ってる基隆はこれだよ、と言う。東シナ海を見ている。
たしか私はここに座って、自分はタイヤルの四季の出身だとマトゥアに話した。Wasiq とマトゥアが、タイヤルの部落について、何か大事そうな話をし始めていたからだったか。マトゥアは四季についてもよく知っていた。四季の抱える問題についても。私は四季について話す時、自分が四季出身だと話す時、いつも少し後ろめたいような気持ちになる。それは四季の抱える問題のためだ。そのこともマトゥアはよくわかっているようだった。
自分たち漢人は、この大地や海というものとの結びつきをうまく感じられない、とマトゥアが話し始めたのは、ここに座っていた時だったか。それとも、八斗子の漁師たちに儀式がないことや、魚の捕獲量のコントロールがニュージーランドよりも徹底されていないことについて、マオリの若者たちが違和感を感じて発言をくり返していた時だったか。マオリや台湾原住民が感じているような、土地や海と人間との結びつきが、移民である自分たち漢人には、ないのだ、と。
私はこれまで、そういうふうに、漢人の気持ちになってみたことが、あっただろうか。
この日の走讀、Walking Workshop はここで解散。マトゥアは正濱の家へ戻り、若者たちは廟口夜市へ、Wasiq と私はバスで台北へ戻り、南京三民駅の近くの蒸し餃子がおいしいという食堂で一緒に夜ごはんを食べることにした。基隆駅のバスターミナルから、國光のバスに乗って、台北まで1時間もかからない。評判の店なのか、小さい店に続々とお客さんが入って、本当にとってもおいしい。私たち二人で蒸し餃子をせいろ二つ、燙青菜、小魚豆干、皮蛋豆腐、酸辣湯。店の名前の「亓」という字が読めない。
この翌日、この旅の2日目、士林の国立台湾科学教育館へ行く。
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