クモマグサ(誕生花ss)

 どうしても登らねばならないのか、と、よく問われるが、偉人の有名な言葉を借りるまでもなく、そんなことは自明だ。登らない理由の方が、俺にはない。
 しかし、世界中の山峰を踏破して来た俺だが、日本の、とある霊山で経験した出来事以上に思い出深いことは、未だにない。その山は、それまで登ってきた他の山々に比べて大したことのない標高で、俺は完全に見くびっていた。だが登り進むにつれ、霧が濃く纏わり付き、やがて視界が真っ白に染まってしまった。行くべき道も戻る道も見当たらず、呼吸さえ苦しくなる。
 山の天気は変わりやすいが、それは天気というよりも、何者かが意図的に俺の行手を阻んでいるような、いやそれどころか、何処へも行かせず窒息死させようとでもしているかのような、不気味な念すら感じさせるものだった。
 さほど有名ではないとはいえ、曲がりなりにも霊山に対して、覚悟が甘かったのか。
 生まれて初めて、登ったことを後悔し始めたときだった。何か、砂粒がパラパラと落ちるような音がした。まずい、と思ったときには地滑りが起き、俺の目の前に、大きな岩とその周りの地面が洪水のように迫ってきていた。
 もうだめだ、と目を瞑ったが、次の瞬間に来たるべき衝撃と痛みはなかった。ただ、何かが割れるような大きな音と、土石流が周りの斜面へ流れていく音が耳に届いた。
 恐る恐る目を開けると、目の前に、赤い着物を着た、まだ若く可愛らしい女の子が立っていた。あまりに唐突な出現によくよく見ると、その着物は土で汚れ、右拳には岩の欠片が付いている。慌てて周りを見渡すと、砕けた巨岩の大きな塊が、幾つも転がっていた。
「ま、まさか……君が?」
 女の子ははにかんだように笑い、さっと消えてしまった。その可憐な様子と、恐らく岩を素手で割ったのだろう行為のギャップに、俺は訳が分からなくなって気絶してしまった。
 あとで聞いたところによると、気の良い神が少女に化けて救ってくれたのだろうということだったが、それから俺の好みのタイプに「岩をも砕く力があること」という項目が入ってしまった責任を取ってほしいものだと、常々思っている。


 花言葉「活力」。名前の由来が「岩を割る」。

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てい
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