ライターとしての目標はなんですか?
#ドーナツトーク は、誰かが出したお題についてバトンリレー式の連載。書き終えたら次の人を指名し、最後はお題発案者が〆めます。
「書くことで目指す目標みたいなものがあるんですか?」
さて、自分の番が回ってきてしまいました。書くことで目指す目標というのは、つまり、書くという行為の先にある、自分が掴み取りたいもの、ということですよね。
うーん、と考えてすぐに思い浮かんだのは、学生時代の先輩のことばでした。
そのことばは、心の一番手前に、常にある。
私は音楽大学に通っていたのですが、ある意味、劣等生だったと思います。国内のコンクールで最優秀グランプリを獲ったとか、世界のコンクールで賞を獲ったとか、そんな人たちに囲まれた中で、自分はコンクールに参加しようと考えたことすらありませんでしたから。
それでもなぜか、表現をすることに、静かだけど確かに湧き出てくるような感覚があって。踊ることでも、歌うことでも、楽器を奏でることでも、書くことでもいい。表現者でありたいと思っていました。でも、たいして踊れないし、歌えない(笑)。社会に出て、紆余曲折ありながらもクリエイティブディレクターになろうと思って、その肩書きを手に入れました。会社のためではなく、自分のため、社会のために仕事がしたいと考えてフリーランスの道を選ぶとき、自分の手からこぼれ落ちずに残っていたのが、表現手段としての「書く」ということだったんです。
では、どうして「書く」のか。何を表現したいのか。考えをさかのぼっていくと(いや、さかのぼらなくても)、いつも思い出すことばがあります。
「淀みのない音楽をつくりたい」
どんなシーンでこのことばを聞いたか、どんな文脈だったか、残念ながらもう覚えていません。でも、はっきりと私の心に刻まれていて。映像音楽を得意としている作曲家、学生時代の先輩のことばです。
心の奥底にしまわれている、という類じゃないんです。心の一番手前に、常にある。だから、文章を書いていても、校正をしていても、インテリアやバッグの中身、料理や人とのコミュニケーションでも(コミュニケーションは不得意ですが 笑)、淀みがないかどうかが気になるし、できるかぎり淀みのない、澄んだものにしたいと思っています。
でも、その先輩は、あえて音をぼかしたり汚したりするようなこともしているそうです。淀みのない音、淀みのない音楽を意識しているからこその「遊び」なのかもしれません。
なぜ、淀みが気になるのか?
ではなぜ、淀みがないかどうかが気になるのか。私には、ことばだけでなく今という世界、あるいは社会、それから身の回りのいろいろなことまで、どこか淀んでいるように思えるからです。ものや心、関係性、お金の使いかたも。いろいろなことに、淀みを浄化していく必要性を感じています。
本当は大切なことかもしれないのに、大切かどうかを自分自身がちゃんと吟味しないまま、自分以外の誰かによって上手に隠されているのではないか。もしかしたら、自分自身の心が澄んでいないから、そのフィルターで見聞きするすべてのことが、淀んで見えるのかもしれないのですが。
無理がなくて、自然かどうか。
誰かの判断ではなくて、自分の判断かどうか。
そこに、ちゃんと心が通っているかどうか。
ひとまず、自分にできる「書く」という表現を通じて、物事を少しずつ整理したり、修復したり、浄化していくことはできないか、と思うんです。自分自身も含めて。
思うだけで、まだできていないかもしれません。でも、書くという行為の先にある、自分が掴み取りたいものは、淀みのないことばによって、自由になったり、想像が膨らんだり、人を信頼できたりする、そんなことばが行き交う社会なのだと思います。
というわけで、みんなはこの質問にどう答えますか?
次は、平川友紀さんにバトンを渡したいと思います!
「書くことで目指す目標みたいなものがあるんですか?」