柿づくり50年の父、レジェンドたちに混ざって剪定デビューした娘
昨日、超超レジェンドの方々に混ざって1日剪定をした。
今年はついに剪定デビューしてしまったのだ。
柿の剪定作業は冬の間に行われる。
収穫を終え、葉が全部落ち、幹と枝のみの姿になった
柿の樹のかたちを整えるのが剪定作業。
古くなった枝を切り落とし、
放っておいたら上に上に伸びていこうとする枝の成長を調節し、
隣の木とのバランスを見ながら枝を間引いていく。
剪定でその年の柿の出来の良し悪しが決まるというほど、
とーーーっても大事な作業だ。
父の柿づくりは50年になるから、
剪定歴もかれこれ50年ということになる。
剪定はほぼほぼ父が1人で行うんだけど、
毎年2日だけ人を頼んでお願いする。
それが昨日だった。
父と同年代のレジェンドたちの会話は、
同じ共通言語を話してるとは思えないほど、
わたしの頭の中に❓が飛ぶ。
「これ、どう思う?」
「こっちがにだゃーご(二代子)だな」
「そっちをいかすか」
「つめた方がいいなぁ」
「ちょっと厚いな」
そんなやり取りの後は、
毎回チェーンソーでぶっとい枝が切り落とされる。
(枝とうより幹のような太いもの)
その間も父は黙々と剪定。
切ってもいいか?の確認なんて一切なし。
信頼関係が半端ない。
途中でふと気づく。
レジェンドたちの動きはわたしとまったく違う。
どうやら見てるところがそもそも違う。
レジェンドたちは、樹の全体をみてる。
いや、周りの木を含めた樹々をみてる。
最初に遠くから樹を眺め、デザインが決まると、
まるでリズミカルなダンスのステップを踏むかのように、
おそろしく早いリズムで枝を切っていく。
わたしがみてるのは、樹ではなくて枝だと気づく。
小枝を眺めて悩んでばかり。
そもそも悩むところが違う。
見てる視界が狭い。
問題にしてるところが問題じゃない。
なんか人生みたいだ…。
森をみているレジェンド。
小枝ばかりみてるわたし。
小枝と睨めっこして、
どの枝を残そうか、どの枝を切った方がいいのか、
どう整えようか頭をこねくり回しているけど、
そもそも樹の全体のバランスを見たときには、
その小枝の根元から切り落とした方がいい場合もある。
樹の全体を見て考える。
いや、さらにはその樹の周りの木々とのバランスを見て考える。
剪定は奥が深い。
まだまだわからないことだらけだ。
でも、これって教育においても同じじゃないかという思いに至る。
(ついついそっちに考えがいく)
剪定には正解がない。
基本の基はもちろんあるけれど、
その樹が今どういう状態なのかによっても変わってくる。
元気があるのかどうか、弱っているのかどうか。
これを樹勢と呼ぶ。
樹全体が元気という樹もあれば、
こっちの主枝(しゅし、小枝を支える太い枝)は元気だけど、
こっちの主枝は弱っているという場合もある。
それによって、剪定の仕方を変える。
できるだけまっすぐ伸ばすという基本に添いながら、
そのときの最善、さらには翌年翌々年のことを考え、
どの枝を残していくかを決める。
レジェンドたちは、樹をパッと見るだけで、
その樹の状態が手に取るようにわかるみたいだ。
(私にはさっぱりわからない)
樹の全体だけではなく、樹の内側まで見て剪定をしている。
何が言いたいかというと、
子供たちを教育する際、子供の樹勢を見てあげないといけない
んじゃないかと思ったのだ。
子供の樹勢とは、子供の健康状態。
今、その子は元気なのか、弱っているのか。
今日はぐんぐん伸びたい気分なのか、休みたい気分なのか。
今弱っているのは体なのか、心なのか、頭なのか。
できるだけその子の持って生まれた可能性を
まっすぐ伸ばしてあげるという前提で、
背中を押してあげたり、厳しくしたり、待ってあげたり、
寄り添ってあげることが大事なんじゃないかと。
結果を急ぎすぎているんじゃないか、
そんなことも農業は教えてくれる。
"自然のままをいかす"
と、あるレジェンドが言った。
人間の都合で樹をこねくり回しすぎてはいけない、
ということなのかなと受け取った。
自然のままぐんぐん上へ上へと伸びていこうとする樹と
それを調整し、整える剪定という不自然な作業の中の
折り合いの見つけ方。
うまく書けないんだけど、
レジェンドたちの剪定には柿の木への優しさが溢れてた。
樹と対話していた。
この日のことはInstagramでも投稿したのだけれど、
いかんせん自分はコンパクトにまとめることがままならず、
書き切れなかった溢れる想いをこちらのnoteに残しておきたくなった。
興味ある方は、Instagramの方フォローしてもらえたら嬉しいです。
切った枝は燃やし、また畑に還す。
剪定は父、燃やすのは母、これも50年続く役割分担。