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料理は愛情?(2)「リュックから異臭」#日々食々
「料理は愛情」を持って作るべきか
前回、料理を作ってもらう側、つまり食べる方の愛情について話した。
「料理は愛情!」なんて、料理研究家の大先輩である故結城貢さんがずいぶん前から言われていて、時を経てその言葉は、作る側から食べる側への愛情を計る言葉として流布している。
今、私の出している結論は「料理は愛情」だ。
しかし、それにはたくさんの但し書きを添えたい。いつの間にか、作る側に負担をかけ、摩耗させることに加担する、悪魔のささやきになりつつある「料理は愛情」という言葉。
抑圧的に感じ、やすやすと使いたくはないからだ。
仕事から疲れて帰ってきて、栄養バランスよく、品数は2〜3品、見た目もよく、家族が喜ぶごはんで「愛情」を計るのならば、見た目のいいお弁当を「愛情」とするならば、私はその愛の世界から離脱するつもりだ。
憎しみのシェイク弁当
私は別居を経て、離婚している。今は息子とふたり暮らしだ。
体がボロボロだった産後、夜明けまで子供をあやして一睡もできなくたって、意地だけで当時の夫のお弁当を作り続けていた。望まれたことを拒否すると、自分の存在価値がないような気がしていたし、否定されたくなかったのだろう。
お弁当作り以外にも私には価値はあったよ、とその時の自分に声をかけてあげたい。
別居を決めた後も家を出ていく3日前まで、朝晩の食事に加えて相手が仕事に持っていくお弁当を作った。
自分も息子も食べない、その人のためだけに用意する料理。
もちろん、そこには愛情なんて微塵もない。それどころか、憎しみというクセの強いスパイスが、相手の舌をジリジリ焼いたことだろう。
ある日、もう理由は忘れてしまったが、きっといつものように何かきっかけになることがあって、私はせっかく完成させた弁当を手に取り、蓋をして思いっきりシェイクした。
「んわ〜!」とかなんとか、相手に聞こえないくらいの声を出した覚えもある。
そして、それをクロスに包んで持たせた。
料理の神様、ごめんなさい。食材よ、ごめんなさい。元夫にも、一応ここで謝っとくか。なんかごめんな。
今から思えば、本当に不毛な闘いだ。
それでも、空になったお弁当箱を持って帰ってくるのだから、料理は愛情とはなんだろう。おいしいはずはないが、お互いを「思いやらない料理」というのは、その愛情のなさが対等ならば、それはそれで成立してしまうものなのだろうか。
それはあまりにも、さみしいことだ。
リュックから異臭
他にも、こんなことがある。
息子が中学生の頃、彼の部屋に入ると何とも言えない、排水が染み付いた道路のような、とはいえ嗅いだことのない匂いがした。成長期ならではのことかと、気を遣って口には出さないでいたが、日に日にその匂いは熟成されていく。
どうにもならなくなり、鼻をひくつかせてたどり着いた先には、息子のリュック。もう、くんくん嗅ぐこともなく、これが匂いの根源だと確信を持ち、そっと開いてみた。
するとそこには、家にストックしてあるスーパーのビニール袋がある。でもどうも様子がおかしい。取っ手を持つと、得も知れぬ重みを感じ、「ギャーーー」と叫ぶ。
ドロドロの液体。その匂いが鼻孔をついたが、それよりもその感触が、私の手のひらを通じて、心にずっしりときた。
息子を問い質したところ、私が外で仕事に出た時に用意してあった昼ごはんを食べるのが嫌で、ビニールに入れて隠したらしい。匂いに気がついたときには、どうしていいかわからなかったと言う。
マンションのゴミ捨て場にでも捨てればいいのに、そんな器用さのない、まだ中学生の息子の何かへの抵抗だった。
「こんな仕事をしながら、そんなに食べたくないのか」と自分の料理の腕のなさにショックを受けたが、よくよく考えると、そこにこそ原因があったのだ。
異物と化してもはや原型がわからなくなったビニール袋の中身は、聞けば仕事で試作したのを、息子の昼ごはんに宛てたものだった。
仕事柄、試作したものを家の食事にすることも多い。
「プロの作ったものを食べられていいね」なんて言われることも多いけど、息子はもっと小さな頃からずっと、試作した残り物を食べるときはおいしくもなさそうだったし、楽しくもなさそうだった。
試作してから時間が経つと、水分が出てベチャッとしたり、固くなったりしておいしくなくなるとかの話じゃない。
これは「自分を見てほしい」という彼なりのサインだったと、思い至った。
このリュックから異臭事件まで、私は仕事が一番で、もちろんそれは生活のためもあるが、自分のために仕事を確立することに躍起になっていた自覚がある。
もっと息子のことを見つめて、もっといろんなところに連れていってあげて、怒ってばかりでなく、もっと一緒に笑い合うべきだった。どんな料理でもいいから、息子のために用意すべきだった。
どんなに仕事が忙しくても、それはできたのではないか。
相手の目を見て話し、気配を感じながら過ごすということは、思いやりだ。思いやりが人と人をつなぐのは料理に限った話ではないけれど、料理には思いやりを形にする力はある。
高校3年生になった息子は、やっぱり大喜びすることはなくとも、仕事で作ったものでも今は食べてくれる。
「料理は愛情」には作る人の負担を思うと圧が強すぎて全肯定にしくいけど、反対に「愛情のない料理はおいしくない」は成り立つように思う。
仕事の残り物だって、レトルトだって、相手を思いやれば、5割増しくらいにはおいしくなるかもしれない。