米国出張へ
9月18日。NYへ出発した。
13時間のフライトを経て、ついたジョンFケネディ空港の匂いを嗅ぐと、アドレナリンが湧いてくるような感覚があった。
ゲートに待ってくれていたのは、LAのチームの一人で本当に今回お世話になっているYさん。ずっとオンラインで話し合っていたから、リアルに会えたらすごく嬉しくなって緊張感が少し解けた気がした。
依頼していたウーバーがきて、ホテルに荷物を預け、早速昼間から物件前で不動産屋さんと待ち合わせをし、そこからは十四件の物件を視察した。
東京、香港、シンガポールと高い都市に出店してきた感覚で言うと、NYのSOHOと呼ばれる一等地の家賃は、坪あたりで最も高かったし、その他の経済条件も極めてハードルが高くて、資本力がないとやっていけない。しかし、中心地から10分歩いてしまうと、一通りが10分の1になります、という世界だった。
時差ぼけの中、一気に14件、各STREETの家賃と通行量を見たことで全体感が掴めた。
そして私の中で勉強になったのは、それらの通りで人が入って賑わっているところはなんらかの共通点がありそうな気がした。
ファッションで言うと、はっきり低単価なお店か、そこにしかない独自の視点を持っているお店のいずれかだなと思った。中途半端なチェーン店が最も苦戦している印象だった。
翌日私は、まさかの寝坊、大遅刻をしてチームのみんなに平謝りな朝だったのだが、この日は、セレクトショップを回り刺激がたくさんあった。
私のアパレルブランド、ERIKOYAMAGUCIの服を事前に見てもらって興味があると言ってくれたのがなんと2店舗あって、そのいずれも「メンズのセレクトショップ」だった。
私は兼ねてからユニセックスな人間なので、まあそれも嬉しいことだが、なぜメンズのお店がそこまで評価してくれるのか、女性に対する考えとかも学びたいなと思って商談に行った。
最も歴史と信頼があり、お店も超巨大なセレクトショップでの会話はとても印象的だった。
オーナーの二人が、MATOUというコートを気に入ってくれて、ここは詳しい卸価格の話や、日本の銀座店に11月に行くと言ってくれて、非常に好印象だったのだが、
「君の服に対する哲学を教えてくれ」というストレートな質問から始まり、
「日本とインドのコラボレーションなんて非常に興味深いな。確かにカッティングは日本、でも素材はインドだね。もっと粗くて、強い生地も使ったらどう?」とかアドバイスもくれた。
一番嬉しかったことは、「インドはいいものがある」という考えが、この日訪れたお店は100%持っていたことだった。わざわざ買い付けにインドに行く人も多くて、ここは日本との大きな差を感じた。かっこいいセレクトほど、インドのものをかなり仕入れていた。
また興味深かったのは彼らと話すほどに、NYでの「ビンテージ」に対する欲求が非常に強いことを感じたこと。
新品を手にいれるよりも、自分だけの古着、ビンテージを手に入れて、それと他のブランドを組み合わせるというファッションが、男女問わず非常に人気だった。
だから生地をわざと洗いをかけていたりして、私のコレクションが、今季WASHED加工したものがたまたまあったので、そこに対して、「ええ!いいじゃん!」となったりして、偶然の一致に興奮もした。
N Yはさすがのセンスと、情報量。私は店舗や物件を見ながらも、クリエイティブな刺激をたくさんもらって、「ああ、こんなもの作ってみたいな」「こういう組み合わせは面白そうだな!」とかなんだか、作りたい作りた!という気持ちになってしまって、インドのみんなとNYからやりとりをしていた。。。笑。
そんなインスピレーションたっぷりのNYを終えて、私は後半のロスへ旅立った。
20日、夜21時にロスに到着。大きな空港からウーバーで40分、エアビーに向かう。
翌日21日は、シルバーレイクという場所にあるセレクトショップのオーナーさんが、私の服を気に入ってくれて、この日私が日本から来るということでパーティーをしたいと言ってくれたのだ。
その人の名前はオスカーさん。
地元で27年もセレクトショップを営み、各界のVIPなお客様も多い彼のお店に、山ほど私のコレクションを置いてくれて、また私のために店舗を貸切にして、DJを呼んで、彼のお客様を呼んで、21日の19時から22時までこんなイベントをしてくれるなんて、はっきり言って、夢のような話しだった。
シルバーレイクのお店に到着した私は、なんだかとっても鳥肌がたった。
だって、外から中にある服が見えて、それが私がインドで、インドのみんなと作った、インドの生地のお洋服だったからだ。。。
(こんなことが人生で起こるの?)
(神様はどうして、こんな出会いをくれたの?)
2018年、日本橋の雑居ビルで、私はインドの手紡ぎ手織のカディと呼ばれる布を売るアシシュさんと出会った。「これが手織なんて・・・」という感動に押されて、本当に彼に会いに行ったのが日本橋での出会いの二ヶ月後。
コルカタから電車で8時間。ムシダバッドと呼ばれる村についた時の感動は今でも忘れない。ほとんど全ての家庭から、カタカタって手織りの音が聞こえたとき、「ああ、残したいな」って思った。
それから工場を作り、40人になったコルカタMOTHERHOUSE工房。初めての服作りに紆余曲折がありながらもようやく辿り着いた自分の名前がついた世界観。
自分の名前をつけるなんて、不安や葛藤や恐怖でどれだけ悩んだか頭も心も張り裂けそうな時もあった。
朝散歩するたびに、
「そんな挑戦はやるべきじゃない。ダメだったら自分が否定されて傷ついて、生きていけるのだろうか、そんなことをしたらもうバッグだって作れなくなるかもしれない。そうなったら700人以上のスタッフはどうなるんだ。」と何度もネガティブな要素が頭に浮かんでは、「やらない」という結論を考えた。それは、経営者という視点だけだったら挑戦をすべきかどうかは、話し合ってみんなで決められる。それが失敗しても、合理的な理由で組織はそこからでも学べる。でも、怖かったすべての理由は、それがデザイナーとしての挑戦だからだった。「途上国」「生産地」を精一杯考えてきた自分が、「自分の主観」の上に立たなきゃいけないと思った時に、大きな拠り所がごそっとなくなる感覚があって、考えただけで涙が出てきた。
でも、その時私は40歳になった歳だった。これから何をして、50歳を迎えるのか。
そんなことを、漠然と考えてもいた。
しかし、何度考えても、怖いだけで、正直答えはネガティブだった。
そこへコロナがきた。
お店が閉まり、工場が休業になり、世界に対して何もできない悔しさが込み上げてきて私は心がおかしくなりそうだった。
その時自宅の部屋にあったミシンで服を作り始めたのが後に、ERIKOYAMAGUCHIの初期シーズンになった。
そんな背景があったからこそ、今、LAで見ている自分の服に、あまりにも深くところで感動した。それは、ただの販売の可能性で全くなかった。
悩み、苦しみ、葛藤を超えた自分の精神に対して、神様がくれたご褒美であり、ある種の許しなんだと思えたから、感動した。
人は弱いし、人の心はとても繊細だ。私は人よりずっと繊細に悩んでしまう性格だから、全ての決断に、人よりずっと時間がかかってしまい、基本的にはネガティブに捉えてしまうことも多い。
だけど、悩んでもわからなかった今回の決断に、自分の頭ではなく、自分の手でミシンを縫ったことで、答えが見つかった。手が、答えを自分に持ってきてくれたことは、私の人生に新しい希望をくれた気がした。
うまく言えないけれど、頭で考えることが全てじゃない。
手で、思う、手で考える。
それは私がずっとやってきたことなんだけれど、ここまではっきりと、手がつれてきてくれた世界があることは、私にとって、新世界だった。
だからこそ、こうやってnoteを書いていても、言いたいことの1割も言えていないもどかしさがあるんだけれど、今、LAで自分の服を見ていることは、どこか神様が手への許しを与えてくれているような、そんな気がした。
さあ、パーティーが始まった。